またトイレの電気がついていたよ | ことぱ舎
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詩と読みものReadings

またトイレの電気がついていたよ

 結婚して二年になるが、遊びで愛をやっているわけではない、という意地のようなものがありつづけている。
 わたしが忘れっぽくてそそっかしいので、夫は何度も同じことを注意しなくてはいけない。部屋を出るときには電気を消すこと。シャワーを浴び終わったら中が蒸さないように窓をあけること。脱いだ靴下は洗濯籠に入れること。掃除機をかけたあとは溜まったゴミを捨てること。これを、くりかえし、くりかえし、言う。
 言われるたび、こちらとしてもすまないなあと思うし、よし、やるぞっ、とも思うのだが、いかんせんこの、「Aしたら/Bする」というのが、苦手である。言われたときにはやる気にあふれていても、次にAが起きたときのわたしが他のなにに気を取られているかわかったものではない。わたしはとにかくいつもなにかに気を取られていて、「Aをしたから、それに関連づけてBを思い出す」ということが他の人に比べて苦手らしい。Aをしているときには、Aのことだけ。Bについて思い出すのは、Bのことを考えたときだけ……
 そんな調子なので、夫はいつも呆れている。それでも、二日にいっぺんは「またトイレの電気がついていたよ」と教えてくれる。

 一方のわたし。だいたいの仕事が在宅で済むので、基本日中はひとりで家にいる。毎日、朝のオンラインワークショップをするためにZoomをつなげて、背景に映り込む夫のクローゼットを必ず閉める。十回のうち九回は靴下のところが開けっぱなしになっている。それを、毎回わたしが閉める。一度や二度は言ったような気もするが、お互いに覚えていない。ただ、夫はわたしのようにぼんやりした人ではないから、開けっぱなしで出ていったのに帰ってくると閉まっているな、ということくらいは気づいているだろう。
 そしてワークショップを終えると、わたしよりも早く起きる夫がココアを飲んで置いていったマグカップに水を張る。二、三時間放置したせいで、底のほうで沈殿したココアが乾いて固まっていて、しばらく水にさらさないと洗うことができない。「使い終わった食器には水を張っておくとよい」ということも夫は知っている気もするが、とにかく毎日のように黄色のマグカップがからっぽでほったらかされている。
 わたしは、とくに夫になにか言うことはない。毎日毎日「ねえ、Zoomに映るからクローゼット閉めていってよ」「ココア飲んだらマグカップに水張っといてよ」と言ってもいいのだが、黙って靴下を隠し、夫が帰ってきたときにはマグカップは静かにきれいになっている。

 これは、わたしの心が広くて夫は心が狭い、という話ではない。どうかそこを勘違いしないでもらいたい。
 わたしもはじめ、夫に注意されると少しずつ腹が立ち、それでもどうしても電気をつけっぱなしにしてしまう自分にはなおのこと腹が立った。けれども、あんまり毎日のようになにか注意されるので、だんだん慣れてきた。慣れてくると、注意している夫の表情や言葉尻をじろじろ眺めるようになり、そのうちにわかってくる———この人は、わたしに注意することを通して、この人なりの愛の実践をしているようだ。
 「妻(わたし)の生活のいたらなさに注意をする」というところだけ切り抜くといかにも家父長的に聞こえるけれど、実際のところ彼の家庭観はもっと進んでいて、家をよい環境に保つこと、暮らしを持続させていくことは、主には自分の役割だと思っている。彼自身ある「よい暮らし像」を持っていて、なんであれば本当はわたしなんかに任せずに自分ひとりでやってしまいたいところを、「よい暮らし像」を共有したいためにわざわざわたしに分担しているらしい。
 おれも君も無理をしない範囲でお互いの快適さを保っていかなければ、長くは続けていけないよね、と夫は話す。共働きでおれだけが家事や倹約をがんばっていたら、それはそれで君だって申し訳なくなるんでしょ。
 つまりは、暮らしの領分を明け渡すこと、そしてふたりの力でその総体が改善されていくことを、わたしたちふたりの関係の持続にとってよいことであるととらえているみたいなのだ。わたしがたまにきちんと電気を消すと、その遂行をすなおに喜ぶ。わたしが「無理をしない範囲で、夫にとって快適に」なっていくことが、彼にはうれしい。そして、家がきれいになり、電気代が適切になり、彼の思う「ふたりの暮らし」が、どんどんブラッシュアップされていくことが。
 そこには、夫のよいと思う状態が他者であるわたしにとっても当然よい状態であろうと思い込む独り善がりさがある一方で、「わたしとの暮らしを続けていきたい」という健やかなやさしさが感じられる。独善はともかく、そのやさしさに応えてやりたいと思えばこそ、わたしは「やるぞっ」と思い、三回に一回くらいはどうにか電気を消し、お風呂の窓をあけてみせる。
 わたしの夫は、注意こそしても、そのことでわたしを怒ったりいやな態度をしたりしたことは、これまで一度もない。自分で電気を消したっていいところを、「トイレの電気がついていたよ」とわざわざわたしに教えにくるのは、彼にとってはわたしと対等でいたい気持ちを表明することなのだった。レストランへデートへ行った日よりも、一日かけて草むしりをした日のほうが、「今日はふたり楽しかったね、いいお休みになったね」と満足そうに眠りにつく夫。それが愛ならしかたない。殴られてそう言っていたら問題だが、つけっぱなしや開けっぱなしを注意されるくらい、なんのこと、それが愛ならしかたない。

 一方のわたし。わたしにとって愛の実践はなんであるか。なにも言わずにさっさとクローゼットを閉め、マグカップを洗ってしまう、わたしにとって。
 生活を共にすると、確かによく聞くように、避けえない摩擦がときどき起きる。大きく言えば、どこからどこまでをよしとするか、というさまざまの線引きが、わたしと夫とではところどころずれあう。つけっぱなし開けっぱなしにしてもそう、掃除の頻度にしてもそう、いつ炊飯するか、いつ歯磨きするか、賞味期限が何日過ぎたら肉を捨てるか。結婚するまでは、たとえば善悪や好き嫌いの線引きに比べたら、生活の線引きなんて大した問題ではないのでは、と思っていたけれど、それは大きな間違いだった。生活の上で当たり前だと思っていることは、そうとは意識していなくてもほとんど掟として存在している。ローカルだが、根深い掟だ。それを無下にされると、ひどく不快な気分になる。本来ただスタイルが違う程度のことなのに、生活のこととなると単なる差異として受け止めるのはむずかしく、これまでの生き方まで否定されるような気分になる。
 結婚して二年、わたしは、その線引きを思いきって更新していくのが、おもしろくてしかたない。そして、それこそが、わたしにとっての愛情と、関係を持続させることへの意欲の表明に他ならない。
 夫のいうままに賞味期限が二日過ぎた豚肉を食べるとき、わたしの頭のなかはぱちぱちとはじけ、不快感と好奇心とでひどく昂奮する。受け入れることが難しいほど、それでいて自然であるほどわたしは昂ぶり、最近もっともよかったのは、食器を洗う手順を夫の方式に変えたことだった。すでにできあがっている手順は掟のなかでももっとも厳格で、もう変えようがない、これ以上よくなりようがない、としか思えない。けれど一度変えてみると、そこではじめて夫の方式が持っている合理性がわかる。その、わかる、が気持ちいい。説明されただけではまったく合点がいかず、不気味にさえ思っていたことが、ぞっとするほど自然に身体に入ってくることが、おもしろい。またそれを一回きりの体験で済ませてしまわずに、あんなに愛していた自分の手順をまるきり捨ててしまうのなんか、たまらない。
 これもまた、夫を立てる従順な妻だなんて、鳥肌の立つような形容で誤解してほしくない———わたしは、夫との摩擦のあいだで自分が変容していくことに、ただの生活上の折衝にとどまらない、愛のつけた引っかき傷のような手ごたえを感じている。自分の線引きをどこまで押し広げられるか、つねに自分自身に挑発され、試されている。そのエキサイティングなこと!

 ただ、ときどき、疑いたくもなる。ふたりの関係の上でわたしのほうだけが自分の変容をおもしろがっている、というのは、一見寛容さのように見せかけた、他者に期待をかけないドライな態度なのではないか。摩擦から生まれる変容を楽しむというのなら、ときには夫がわたしにするように、わたしの線引きを、合理性を理解してもらう努力をするべきなのではないか。「ドライである」というのはわたしにとっては聞き慣れたののしり文句で、いまはこのあたりでくすぶっている。それ自体、また自分のほうにさらなる変容を求めようとしているだけでは、といわれてしまうと、なにも言い返せないのだが。

 夫の、ふたりの暮らす環境の全体を改善しようとする、公共の福祉のような顔をした独善と、わたしの、自分のほうが変容しようとする、無償のやさしさのような顔をした怠惰さとが、同じ皿の料理を分け、ふたり並んで眠ったり、目覚めたりしている。

(撮影:クマガイユウヤ)