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Photo by :クマガイユウヤ
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笑う姿を見てて、うれしい

 わたしがショッピングモールを泣きながら歩くとき。それは、プレゼントを探しているときだ。プレゼントをあげることだけが決まっていて、なにをあげるかがどうにも決まらない。そういうときに、いろんなお店をウロウロと歩き回ればアイ…

 わたしがショッピングモールを泣きながら歩くとき。それは、プレゼントを探しているときだ。プレゼントをあげることだけが決まっていて、なにをあげるかがどうにも決まらない。そういうときに、いろんなお店をウロウロと歩き回ればアイデアが降ってくるだろうと期待して行く。その点ショッピングモールはちょうどいい。ショップが密集しているから、あげるもののジャンルすら決まっていなくても、手広くあれこれ見て回れる。

 それで父の誕生日プレゼントを買いに行ったのだったが、最近のショッピングモールはやたらに広い。むちゃくちゃ広い。ああ、にっくき越谷レイクタウン。まず、「kaze」、「mori」、「アウトレット」の三つのエリアに分かれていて、それぞれが一つのショッピングモールぐらいある。かつ、歩道橋で、ときにシャトルバスで移動しなければいけないくらい離れている。全体をゆるっと見ながら決めようかな、くらいに思っていた甘い考えはあっけなく崩れ、持ち前の方向音痴も災いして、朝に到着したはずなのに、「アウトレット」をうろちょろしているだけで午前中が終わった。しかもこれといって有力なプレゼントは見つかっていない。どれを見てもぜんぜん違う、父にあげたいものはひとつもない。しかしわたしもばかではない。自分に休みを与えるタイミングがわからない人生をやってきて二十八年、いいかげんどんな作業の途中であってもお昼になればお昼休みをとる知恵が身についてきた。これはすばらしい。すばらしいすばらしい、と飲食店がある「mori」まで歩いたら徒歩十分かかった。ほうほうの体でバクテーを食べ、「kaze」に行く(徒歩十五分)。「mori」にはプレゼント候補になりそうな店がなく、ご飯を食べればもう用はないのだ。そこでついつい自分の服やなんかも見たりして、店を出たところで、帽子がないことに気がつく。

「すみません、先ほど試着した者なんですけれども、黒いキャップが試着室に落ちていなかったですか……」
「あっ、いま他のお客様が入られていますので、少々お待ちいただけますか?」
「あっ、はい、大丈夫です……」

 待っている間、店員さん同士が小声で(でも、さっき見たよねえ?)(なかったですよねえ?)と確認しあっているのが気まずい。それでうすうす分かっていたが、試着室が空いても帽子はなかった。謝りながら店を出て、さっきバクテーを食べたエスニック・レストランに電話をかける。

「あっ、黒いお帽子ですね、ありました! 『mori』二階のインフォメーションセンターに届けましたので、そちらにございます!」

 ワーン!
 以上が、成人女性がショッピングモールでひとりメソメソ泣くまでの顛末である。こうなるともうぜんぶがイヤになってくる。いや、そもそも、ここに至るまでに積み重なったものがあった———家族連れとカップルに横目で見られながら、わたしはこのあいだの授業のことを思い出していた。

 

 わたしが今年開室した国語教室『ことぱ舎』の木曜夕方のコマには、現状生徒がひとりしかいない。それでわりとのんびり授業をしている。そのぶん、ある問題についてずっと話したり、そこからもさらに脱線したりできるのは、わたしにとっても贅沢なことだと思っている。
 そのときも、ひとつの誤答の前で、ふたり首を傾げていた。先生という立場で一緒に首を傾げているのもどうかと思うけれど、本当にむずかしい誤答だった。

「Q. ———③とありますが、その理由を考えて書きなさい。」
「A.母親のうれしそうに笑う姿を息子は見てて、うれしいから」

 エッセイの読解で、この設問で考えなければいけないのは筆者・重松清さんの行動の理由だった。重松さんは、子どものころお母さんと一緒に作ったロールキャベツのことを印象深く思い返す。そればかりではなく、お母さんは重松さんが四十代半ばを過ぎたいまでも、帰省すると必ずロールキャベツを作るという。そのときに、重松さんはわざとお母さんに子どもっぽい態度をとり、つまようじが入っていたことに口をとがらせて文句をいう。それはなぜか、という問題だ。

 これ自体、むずかしい問題だなあと思う。小学校六年生に解かせるにしては、核となる書き手の感情に渋みがある。「この気持ち、なんとなくわかる? 似た気持ちになったことある?」と聞いてみたら、意外にも「わかる、わかる」という。

「わかるよー。下だと思ってた子がいつの間にか成長しちゃっててさびしい、みたいな」
「あっ、えっ、そっち? じゃあさ、成長する、息子のほうの気持ちは? 自分のお母さんを見て、年取っちゃってさびしいなあ、とか、自分の方が成長しちゃってお母さんさびしいだろうなあとか、なんかそんなことある?」
「それはない」

 即答。
 一応、模範解答としては「いつまでも息子の自分が手のかかる子どもでいたほうが、母親が喜ぶことを知っているから。」となっている。解説にはこのように書かれている。

「母親はいい大人になった息子のことを『くどくどと』しつこく心配し、『おかわりをすると、心底うれしそうな顔』になります。母親にとって息子はいつまでも小さな子どもなのです。筆者はこの思いに気づいていて、その気持ちによりそうようにふるまうのです。わざと『ワガママな子どものよう』にふるまう理由を答えるので、そのようにふるまうことで母親が喜ぶとわかっているから、という方向で解答をまとめます。」

 つまりは、機微があってむずかしいとはいえ、前段ではっきりとヒントが出ているのでそこから読み解けばよい、という解説になっている。しかし、だ。この解説だけでは、「母親のうれしそうに笑う姿を息子は見てて、うれしいから」という回答が誤答である理由をうまく説明しきれない。一応、模範解答を紹介しつつ、わたしたちは首を傾げる。

「なんかね、あんまり間違ってはない感じもするよね」
「うん、わたしもそう思う……」
「君の場合は、どんなふうに考えてこの答えになったの?」
「……? だって、つまようじが入ってたよって注意する理由でしょ? お母さんがうれしいと、自分もうれしいからかなあと思って……」

 うーん。たしかに、である。なんなら、誤答の方が一歩先へ行ってしまっているように思える。母親が喜んでいることは(理由はともあれ)当然のこととした上で、では、なぜ息子は母親が喜ぶことをしようとするのか、という、さらに向こうにある問いに答えようとしないと、この答えは出てこない。いやいや、その(理由はともあれ)というところを飛ばさずに考えておくれよ、というので一応バツをつけたけれども、その飛躍がおもしろい。

「ここまで書いちゃうと、『そもそも、なぜ人は他人が喜ぶことをしたいと思うのか』というところに答えないといけなくなっちゃうと思うんだよね。それはわたしでもちょっとわかんないよ」
「そっかあ」
「でも、そんな難しい問題に急にチャレンジしたにしては、ちゃんと考えて答えたんだなあ、ってわかるよ」
「そお?」
「うん」
「そっかあ」

 そんなふうに話しながらも、わたしの方がまだどこかで引っかかっている。彼女がまず疑問に思ったであろう、「お母さんが喜ぶことを、なぜ息子がしたいと思うのか」ということについて。先には、彼女の誤答の方が一歩先に行ってしまったと書いたけれども、あるいは逆であるかもしれない。誰もが誰かを喜ばせることをしたいはずである、それは当然であるとし、そこに疑問を持つまなざしを置き去りにしてはじめて、この解答が成り立つような気がしてくる。

 

 「kaze」の通路を肩をいからせて歩いていきながら、わたしは泣いている。帽子をなくして無駄足になったのも悲しい、気づいたらもう午後二時半なのも悲しい、そしてなによりも、父にあげたいプレゼントがひとつも見つからないのが悲しい。
 プレゼントをあげたいと思って買いものにやってきたのにそれが見つからないとき、あんなに悲しいのはどうしてなのだろう。自分は大切な父のことをなんにもわかっていなかったんじゃないか、とうじうじしはじめ、そうなると今度は「いや、そもそも、あげたいものもないくせに誕生日だからって反射でプレゼントをあげるというのはどうなんだ」と自分を責めたくなってくる。

 誕生日だからすなわちプレゼントをあげるなんて、形骸的なコミュニケーションであって、相手を大切に思う気持ちとは反対じゃないか。
 いやいや、実のない形骸的なコミュニケーションこそ、どんな無意味なことであってもあなたと関わりを持ちたいという意思表示であって、親密さのあらわれなのだよ。
 じゃあなにをあげてもいいのか? わたしがプレゼントをあげたいのは「父」という記号ではなく、「わたしの父」という生きた個人であるのに、お店で父へのプレゼントというとだいたいどんなおじさんにもあげられる、マフラー、ネクタイ、名前入りのボールペンあたりに収斂してしまうのはどうして?
 それこそが中身なんて問題じゃない証明じゃないか。「あげたいものがあるからプレゼントをあげる」なんていうのはいかにもおまえらしい本題の取り違えだね。プレゼントをあげたいから、あげたいものができるんだよ。
 じゃあなにをあげたらいいの?
 そこの「お父さんありがとう」って書いてあるビールジョッキでもあげてさみしがらせてやればいい。
 あっ、やっぱりさみしがるとわかっているんじゃないか!!
 さみしがらせてやればいい。自分が歳をとったと分からせて、同時に娘が成長したと分からせて、年月を経た父娘のだいたいの距離感というものを見せてやればいい。
 ……うるさいな……

 

 父は八月で五十八歳になった。重松さんがエッセイの中でお母さんの作るロールキャベツをたくさん食べる理由は、子どものようにおかわりをしてお母さんを喜ばせたいばかりではない。

いい歳して、四つも五つも食べる。食欲が増したわけではない。おふくろが一人でつくるひき肉のダンゴが、昔より一回りも二回りも小さくなったせいだ。

 わたしは父が歳をとるのが怖い。父の身体が小さくなり、動きが遅くなって、死のほうへ近づいていくのが怖い。結婚して家を出てから、心なしかその経過が早まっているように思えることも、見ないふりをしている。それなのに、誕生日を祝おうとしている。泣きながら越谷レイクタウンを歩く。もうほとんど走っている。ビールジョッキを無視し、名前入りのボールペンを通り過ぎて、頭のなかにはついにひとつの問いだけが残る。

Q.父が喜ぶことを、わたしはなぜしたいと思うのか?

 結局、わたしは越谷レイクタウンでプレゼントを買うのをあきらめた。家に帰って、ネット通販で父の好きな車種のラジコンを買った。父が喜ぶと分かっているから、というのでは、やはり足りない。「父が喜ぶとわたしもうれしいから」というのは、生徒の答えであって、わたしの答えではない。

 ラッピングをやぶいて出てきたラジコンに父は爆笑して、すぐに家中の単三電池をかき集め、リビングをかっ飛ばした。ときどきバンパーで壁紙をえぐって母の反感を買った。父が小さなガルウイングを開閉させるたび、その間抜けなカッコよさがおかしくて、わたしと弟と夫も爆笑した。運転好きな父だから、三十分も走らせたらドリフトまでマスターした。わたしは子どものように、「ねえ、それどうやんの? もっかいやってよ」とねだったのだ。

 

引用:
Z会編集部 編(2017)『Z会グレードアップ問題集 小学六年 国語』Z会
重松清「ロールキャベツ」(飯島奈美(2009)『LIFE なんでもない日、おめでとう! のごはん』東京糸井重里事務所)

どうすれば自分もそのように誤ることができるか(谷口隆『子どもの算数、なんでそうなる?』)

谷口隆『子どもの算数、なんでそうなる?(岩波科学ライブラリー302)』岩波書店を読みました。  数学者の谷口隆さんが、自身のお子さんが算数にふれ、さまざまに理解していくようす、そしてその過程でさまざまに間違えるようすを観…

谷口隆『子どもの算数、なんでそうなる?(岩波科学ライブラリー302)』岩波書店を読みました。

 数学者の谷口隆さんが、自身のお子さんが算数にふれ、さまざまに理解していくようす、そしてその過程でさまざまに間違えるようすを観察するエッセイ。「教える」というのではなく「観察する」というのがこのエッセイにはふさわしい。それでいて、まさにその「観察」こそが「教える」ために不可欠なことであると思わされる。

 子どもは間違える。二枚の百円玉を指して「ヒャクニエン」といったり、「11時の1分前」をたずねられて「10時69分」と答えたりする。わたしは子どものときから今に至るまで算数が苦手だけれども、さすがに大人、上記の二問はわかる。とてもかんたんであると思う。しかし、わかるゆえに、こんなにかんたんな問題をどうして間違えるのかはわからない。そこを谷口さんはつぶさに観察し、その答えが導きだされた道筋を考える。考えるばかりではなく、深く納得しようとする。「ヒャクニエン」の問題に関してはこうだ。

もともと日本語の自然な語順は「100が2つ」であり,「2つの100」と表現することはあまりない。たとえば入場料を払うときに人数を伝えるには「大人4,子ども3」のように言うのであって,「4大人,3子ども」とは言わない。そのように,幅広く一般的に用いられている統語の規則である。であれば、100が2つある状況が,二百ではなく百二となるのは,子どもにとっては当然のことではないだろうか?

 このように推測されて、読んでいるわたしもはじめて谷口さんとともに「ヒャクニエン」に納得をすることになる。そして、さっき「考えなくてもわかる、当然ニヒャクエンである」と思った自分の足場のほうがあやしくなってくる。あれっ? じゃあニヒャクエンの方にはどのような正当性があるのだっけ……? 「11時の1分前」問題の説明はこれよりさらに複雑でおもしろいのでぜひ読んでもらいたい。

 この納得がいい。誤りに対して反射的に「どうすれば誤りを正せるか」と考えてしまいそうになるところを、このエッセイは「どうすれば自分もそのように誤ることができるか」と考える。単に正答を教えることはほとんどしない。誤りを訂正しないままさらっと三ヶ月経ち、数年経ってしまう。その定点観測の遅さもまたおもしろい。どうすれば正しさのほうへ急いでしまわず、そのようにゆるやかに構えていられるのだろう。

 特筆すべきなのは、この本が一貫して誤りをおもしろがっているところだ。誤りをおもしろがるというと、「珍回答」的なある種の侮りを連想するけれども、そうではない。誤りそのものを、子どもの学びにとって、また観察している大人の方の学びにとっても、本当に重要なものとして扱っている。

 誤りの観察を通してこのエッセイに書かれているのは、「他者の理解を理解する」試みではないか。一度わかってしまうと、わからない状態に戻るのはむずかしい。そこにはほとんど断絶がある。さらに、仮に自分がどのようにわかったかを思い出すことができたとしても、それがすなわち他人がどうすればわかるかを理解することにはならない。教育の場面にありふれたその断絶を打開するためにはどうすればいいのか。

 正答を教えることをしない代わりに、谷口さんは新たな問いを子どもに投げかける。その応答を通じて、子どもの中でどのような理解がなされているかをさらに解明しようとする。その地道さ、遅さ、そして自分の理解を絶対のものとしない態度が、すでにわかってしまったあとに教えるということを考えるための重要なヒントになる。自分の理解と他人の理解とが異なることを踏まえながら、しかし単に異なるということに終始せず、あくまで両者の接地する点を探る。自分の理解からしかはじめられないとしても、他者の理解がどのようであるかを推測し、納得することはできる。そのすぐれた知性のありように励まされる。

 また、その知性のはたらきを通じて、「なぜ間違えたのか」という問いがつねに水面下に生きているのがすばらしい。これはどうにも扱いづらい問いかけで、日常生活の中では、そうたずねたら相手を萎縮させてしまい、逆に自分から話すと今度は言い訳のように響いてしまう(先日聴きに伺った谷口さんの講演会でも同様のことが話されていて、実際に子どもにたずねるときには「なぜ間違えたのか」という問いかけは避け「どうやって考えたのか」を聞くらしかった)。けれども、「なぜ間違えたのか」をただ考えるほど重要なことはないように思えてくる。そもそも他人の理解を云々する以前に、自分がどのようにわかったかさえ、ほとんどわからずに暮らしているのではないか。静かに、急がずに、「なぜ間違えたのか」とくりかえし考えたい。

オッケー、愛情だけ受け取るね

 先にことわっておくけれども、これから書くことは断じて暗喩ではない。いくらわたしが詩人だからといって、ぜんぶの言葉に含意があると思ったら大間違い。いや、むしろ詩人だからこそ、書かれた言葉を言葉の意味そのままに受け取ること…

 先にことわっておくけれども、これから書くことは断じて暗喩ではない。いくらわたしが詩人だからといって、ぜんぶの言葉に含意があると思ったら大間違い。いや、むしろ詩人だからこそ、書かれた言葉を言葉の意味そのままに受け取ることの重要性を訴えたい。常識、社会的な文脈、暗黙の了解、くそくらえ。馬と書いてあったらそこには馬がいて、愛と書いてあったらそこには愛がある、愛がなにかはわからなくともひとまず愛なるものが現実にあると仮定する、そのような素直さをもってはじめて詩が読めてくるものじゃないか。深い意味を読み取ろうとすればするほど、意味そのものからは遠く離れてしまう、そんな痛い思いは、日頃のコミュニケーションだけで十分でしょう。

 ここまで前置きをすれば大丈夫だろう。それでは聞いてください。

 夫のへたなマッサージで、もっと気持ちよくなりたい。

 

 夫はマッサージがへただ。しかしわたしが肩凝りでつらそうにしていると、必ず「マッサージしてあげようか」と言ってくれる。手が大きく、指が太くて皮膚も硬いので、どうしても大味な施術だ。そのくせやけに熱意がこもっていて、いきなりすごい圧力で押してくる。わたしとしてはもっとのんびりほぐしてもらえればいいのだが、夫のマッサージはそれを許さない。いたい、いたい、と訴えても、いいから、いいから、などといって押しつづける。凝ってるから痛いんだよ=ここはがまんしてちゃんとほぐさないと、という理屈があるらしく、わたしが痛がるほど施術態度もかたくなになる。しかたなく痛みに耐えるのだが、そのせいで身体のあちこちに変な力が入り、ことが終わったころにはかえってへとへとになってしまう。くりかえしになるが暗喩ではない。

 何度かその旨を伝えたこともある。すると一旦は力を弱めてくれるけれども、次にはまた元の「強」に戻ってしまう。マッサージをしてもらっている立場でそのたびに口を出すのもなあ……と気後れもあり、実際それで肩は楽になるということもあって、結局、うう、いたい、いたい、などといいながら甘んじて受けている。

 しかし、マッサージが終わる時の空気が釈然としない。たいてい、わたしが「もういいよ、ありがとう、もう大丈夫だから」と先に制する。すると、制されてわたしの背中側からぐるりと正面へ出てくる夫が、不満そうにしている。言いたいことはわかる。彼はとびきりの愛情でもってわたしの肩を「強」で押しているのだから、そんなふうにうんざりした感じで止めなくてもいいじゃないか、というのである。しかしこちらからしてみれば、わたしこそしばしこの痛い愛情を受け止めたのだから、もっとなにか心のかよったような終わりざまでもいいじゃないか、と思う。そして、どことなくお互いに損をしたような雰囲気だけが残る。不毛だ。夫婦のスキンシップがこんなことでいいのか。

 

 話は変わって、わたしは夫の母、つまり義母が好きだ。元来、女性から同性として女性らしさを求められることが苦手で、世に聞く「嫁・姑問題」なるものに戦々恐々としながら結婚したのに、案外あっさり好きになった。

 義母は、わたしに接するとき、こちらがドギマギするくらい気を遣う。あるとき話してくれたことによれば、義母の夫、つまりわたしの夫の父は早くに両親に先立たれていて、義母は「夫にとっての嫁」であった経験はあっても「姑にとっての嫁」であった経験がない。「姑」のモデルもいなければ、「嫁」として姑に接する気持ちもわからないという。さらに、例の「嫁・姑問題」で耳に入ってくるのはいやな話ばかり。それで、自分自身で姑のよきありかたを探りながら、おっかなびっくりわたしに接してくれているのだった。

 なにをするにも、わたしに「いやだったら言ってね」「気にしなくていいからね」と念を押し、下の名前にちゃん付けで呼びかける。その距離感がうれしい。いきなり親密にされるよりもむしろ、めいっぱい考えながら仲良くしようとしてくれているのがよくわかって、うれしい。ご飯を食べにいくと、彼女の息子であるところの夫に食事や飲みものを勧めるのと同じように、わたしにも勧めてくれる。酔っぱらうと子どもにするようにわたしのからだに気やすく触る。日頃、からだに触られることをあまり好まないわたしだが、それはふしぎにやさしく思えるのだった。さらに、義母が義理の家族といっしょにいるのを見ていると、彼女が気を遣うのはわたしに対してだけではないのもよくわかる。誰に対してもひとしく眼差しをくべて、不快な思いのする人がいないようににこにこと立ち回る。すごいなあ、と思う。

 

 ところが、夫である。姉ふたり弟ひとりの末っ子に生まれた夫は、どうやら家族のなかではまだまだ子どもであって、義母は夫のことが心配でしかたない。それで、帰省するたび夫にあれこれと問いかける。仕事はどうなの、目標はあるの、健康診断はどうだったの。そこで、問われた夫があまりにぞんざいな対応をするのに、わたしは驚く。

仕事はどうなの。
どうって、べつに、ふつうだよ。
目標はあるの。
うーん、まあ、がんばります。
健康診断はどうだったの。
なんもなかったよ。

 眉間にしわを寄せながらそんなふうに答えるので、へんにドキドキしてしまう。確かにわたしも、自分の親に子ども扱いされて疎ましく思うことはある。けれどそれにしたって、このやさしい義母にそんな頑なさを向けていいものなのか。生まれ育った家族からは一歩外がわにいるわたしだからそう思ってしまうだけかもしれないけれど、しかし、せめて「気にかけてくれてありがとう」ぐらいひとこと言ってあげたらいいじゃないか。

 わたしが口を出すわけにもいかないので黙って見ていると、義母は最後に「まあ、いいんだけど、ラインでいいからときどきどうしてるか教えてよ」と言った。夫はにぎり寿司を箸で持ったまま、はい、はいと答えた。

 その日の帰りぎわ、夫が車を出すのを待っていると、義母がわたしのところへ寄ってきた。

「今日はありがとうね、大丈夫だった? いやじゃなかった?」
「えっ、なにがですか。大丈夫ですよ」

義母は、とても酔っ払っているようだった。

「いや、わたしがあんな風に心配してたら、奥さんとしてはいやだったりするかなと思って」
「いや、ぜんぜん、そんなことないですよ」
「本当? わたしが◯◯くん(夫)のことが大好きでも、いやじゃない?」

 その瞬間、笑ってしまいそうな、それでいて涙が出そうな、なんともいえない気持ちでいっぱいになった。暗がりで、義母の瞳が一際きらめいて見えた。わたしは息を吸いこんで、答えた。

「いやなわけないじゃないですか! そんなの、いやなことなんて、ひとつもないじゃないですか!」

 わたしたちはしばし微笑みあい、夫の運転で近づいてくる車のブレーキランプに照らされていた。義母が、ありがとう、といって、わたしの腰に手をまわす。わたしはそれで図に乗って、もうひとこと付け加えた。

「おかあさんは、わたしが、◯◯くんのことが大好きでも、いやじゃないですか?」
「いやじゃない。すっごく、すっごくうれしい!」

 夫の車に乗り込んでからも、わたしはしばらく上気していた。下戸なのでお酒は飲んでいなかったけれど、頬が熱かった。なにか特別な瞬間を過ごしていたような気がした。

 

 それ以来ときどき、義母に「わたしが◯◯くんのことが大好きでも、いやじゃない?」と聞かせたのはなんなのか、考えてしまう。一般に愛情はいいものとされているけれど、しかし必ずしもそればかりではないということを、わたしたちはすでによくわかっているのではないか。愛する人の頑なさの前に立たされて、自分の愛情がぜんぜんその向こうへ通っていかないとき、愛情自体の罪深さのようなものを思い知る。愛情は本来そんなにいいものではなく、疎ましがられるほうが自然という気がしてくる。ただ相手に幸せでいてほしいと願うことさえも自分の押しつけではないかと思わされる。けれどもそこで、嫌がられることに怯え、押しつけにならないよう忍耐をし、たえず距離感を計りながらも、どうにか愛情を持ちつづけようとする、大げさな言い方になるけれど、それこそが愛といってはいけないだろうか。

 そう思うと、わたしはやはり義母のためらいを尊敬せずにはいられない。そしてあのとき、義理の娘の前にどうしてもはじけ出してしまった義母の愛情を、いとおしく思わずにはいられない。

 

 また別の日、夫の運転する車に乗りながら、わたしは菓子パンを食べていた。はじめて食べるパンで、クリームが挟まっていて、なかなかおいしい。いいねいいね。夫にもあげよう。と、思った瞬間に、夫がなにか話しかけてきたのだったが、一度動き出したわたしの動作は止まらず、ちょうど夫の口をふさぐ形でパンを押し込んでしまった。しばし遅れて、あっ、いま、話を聞きたくなくて止めたみたいになっていなかったか、と焦る。

「あっ、ごめん、悪気ないよ……おいしかったから、食べさせてあげたかっただけで……」

あわてて謝っているあいだに、夫はゆっくりとパンを噛んで、飲み込み、答えた。

「オッケー、愛情だけ受け取るね」

 その言葉の軽さに、虚をつかれたような思いがした。さらっと言っているけれども、いつでもそれができるのなら、どんなにいいことか。そうだな、そうしよう、愛情だけ受け取ってみようか。わたしはそのことでしばらく感心していたのだが、夫にはなんのことだかあまりわかっていないようだった。パンは最後までおいしかった。

 今日も夫が、「マッサージしてあげようか」と声をかけてくれる。一度、うーん、と思う。夫のマッサージは、へただし、痛いし、される前より疲れることもしばしば。けれども、まあ、やってもらおうか。またお互いなんとなく妙な感じで終わるかもしれないけれど、それはそれでいいか。本当に愛情だけを受け取れるものか、ためしてみよう。そんなふうなくりかえしで暮らしていってみようか。

 そう思って、めずらしくマッサージの強さに口を出さずにいてみたら、くっきり指の痕が残ってびっくりした。夫もちょっと引いていた。本当の本当でいえば、やっぱり、ちゃんと気持ちよくなりたいのだった。自然に肩を揉まれて、自然に快復したい。心配されてしみじみとあたたかく思いたい。勝手に走り出す自分の愛情も疎ましければ、だれかの愛情を受け止めきれず、すぐ真っ赤な痕になる自分の脆さも疎ましい。だれかに愛によって行われたことが、自分にとっても本当にいいことである、そんな奇跡のようなことが、どこかで起きてくれないかなあと思うのだ。

(撮影:クマガイユウヤ)

詩集「とても小さな理解のための」取扱書店まとめ(随時更新)

2022年7月30日、わたし向坂くじらの第一詩集「とても小さな理解のための」がしろねこ社より刊行となりました。 全国の書店さんでお取り扱いいただいております。どんどん情報が増えますので、随時こちらにまとめていきます。(な…

2022年7月30日、わたし向坂くじらの第一詩集「とても小さな理解のための」がしろねこ社より刊行となりました。

全国の書店さんでお取り扱いいただいております。どんどん情報が増えますので、随時こちらにまとめていきます。(なお、すでに売り切れとなっている書店さん、逆に流通の関係で配本タイミングが遅い書店さんなどもあるようです。お求めに行かれる際は、事前に書店さんへ在庫を確認していただくと確実です。)

 

◯ 北海道

ほうきのアトリエと本の店 がたんごとん(小樽)
https://gatan-goton-shop.com

 

◯ 東京

本屋B&B(下北沢)
https://bookandbeer.com 

百年の二度寝(練馬)
https://100nennonidone.jimdosite.com

本屋イトマイ(板橋)
https://www.booksitomai.com 

百年(吉祥寺)
http://www.100hyakunen.com 

BOOKS 青いカバ(駒込)
https://www.bluekababooks.shop

双子のライオン堂(赤坂)
https://liondo.jp

NENOi(早稲田)
http://nenoi.jp

本屋Title(荻窪)
https://www.title-books.com

デスカフェ屋(西日暮里BOOK APARTMENT 内)
https://scramblebdg.com/book-apartment/
※リンク先は「西日暮里BOOK APARTMENT」

Flying Books(渋谷)
http://www.flying-books.com

三省堂書店神保町本店(小川町仮店舗)
https://www.books-sanseido.co.jp/shop/kanda/

代官山蔦屋書店(代官山)
https://store.tsite.jp/daikanyama/floor/shop/tsutaya-books/

twililight(三軒茶屋)
https://twililight.com

今野書店(西荻窪)
http://www.konnoshoten.com

SPBS TOYOSU(豊洲)
https://www.shibuyabooks.co.jp/spbs_toyosu/

BOOKSHOP TRAVELLER(下北沢)
https://wakkyhr.wixsite.com/bookshoptraveller

 

◯ 神奈川

本屋・生活綴方(神奈川・横浜)
https://tsudurikata.life

 

◯ 千葉

本屋lighthouse(千葉・幕張)
https://books-lighthouse.com

 

◯ 埼玉

つまずく本屋 ホォル(川越)
https://hoorubooks.wixsite.com/info

小声書房(北本)
https://kogoeshobo.theshop.jp

 

◯ 愛知

ON READING(名古屋・東山公園)
https://onreading.jp

TOUTEN BOOKSTORE(名古屋・熱田)
https://touten-bookstore.net

 

◯岐阜

HUT BOOKSTORE(美濃加茂市)
https://hutbookstore.stores.jp/about 

 

◯ 大阪

紀伊国屋書店梅田本店(梅田)
https://store.kinokuniya.co.jp/store/umeda-main-store/

ジュンク堂書店大阪本店(西梅田)
https://honto.jp/store/detail_1570022_14HB320.html

MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店(梅田)
https://honto.jp/store/detail_1570065_14HB320.html

ジュンク堂書店難波店(難波)
https://honto.jp/store/detail_1570052_14HB320.html

blackbird books(豊中)
https://blackbirdbooks.jp

スタンダードブックストア(天王寺)
https://www.standardbookstore.net

 

◯ 京都

丸善京都本店(河原町)
https://honto.jp/store/detail_1570144_14HB310.html

 

奈良

奈良 蔦屋書店(新大宮)
https://store.tsite.jp/nara/

 

◯ 兵庫

ジュンク堂書店三宮駅前店(三宮)
https://honto.jp/store/detail_1570002_14HB320.html

 

◯ 鳥取

汽水空港(松崎)
https://www.kisuikuko.com

 

◯ 福岡

六本松蔦屋書店(六本松)
https://store.tsite.jp/ropponmatsu/

本と羊&FARMFIRM DESIGN(六本松)
https://hontohitsuji.thebase.in/about

 

◯ 香川

本屋 ルヌガンガ(高松)
https://www.lunuganga-books.com

TUG BOOKS(小豆島)
https://note.com/tugbooks/

 

◯ 沖縄 

くじらブックス&Zou Cafe(八重瀬町)
https://kujirabooks.stores.jp

 

★2022/9/10~10/5練馬・百年の二度寝さまで、「とても小さな理解のための ポスター展」開催決定!

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★全国からご購入いただけるしろねこ社公式通販はこちら
https://shironekosha.thebase.in/items/63233836
全国どこでも、何冊買っても送料180円です。

★お取扱をご検討の書店さまへ
「とても小さな理解のための」のお取扱をしてくださる書店さまを探しております。
ぜひ、以下のフォームより版元のしろねこ社へお問い合わせください。
https://shironekosha2017.wixsite.com/-site-1

「ことぱ舎」が朝日新聞に掲載されました

2022年6月15日の朝日新聞夕刊に、今年オープンした「国語教室ことぱ舎」についての記事が掲載されました。 「詩人が開く ことばの扉」 「国語専門塾『ことぱ舎』受験指導も創作も」 との見出しで、とても丁寧にご紹介いただい…

2022年6月15日の朝日新聞夕刊に、今年オープンした「国語教室ことぱ舎」についての記事が掲載されました。

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「詩人が開く ことばの扉」
「国語専門塾『ことぱ舎』受験指導も創作も」
との見出しで、とても丁寧にご紹介いただいています。

また6月19日には、朝日新聞社の本に関する情報サイト「好書好日」にも掲載されました。
こちらでは無料で全文読めます。

詩人・向坂くじらさんが国語専門塾「ことぱ舎」を開塾 受験指導も創作も

↑「編集部一押し」としてサイトトップに表示していただいています!(6/19時点)

取材・執筆してくださったのは山本悠理さんです。
記者でありながらご自身も詩を書かれており、記事内で

「谷川俊太郎さんや草野心平、アレン・ギンズバーグにマヤコフスキー……。埼玉県桶川市にある学習塾「ことぱ舎」を訪ねると、受験勉強に用いられる一般的な教材とともに、古今東西の詩集が書棚にひしめく。詩人の向坂(さきさか)くじらさん(27)が自ら実現させた、念願の空間だ。」

と、やや渋いセレクトでわたしの本棚を紹介してくださっているのがうれしいです。
(もっと子ども向けの詩集もたくさんありますよ!)

小さな部屋で始まった小さな試みを見つけていただき、このように言葉を与えていただけて、思いもよらない喜びでした。
実践そのものはまだまだ途上なのですが、これからもがんばります。

お問い合わせ・見学・体験入塾など、お気軽にご連絡ください! お待ちしております!

俺は論理的に話したいだけなんだけど、彼女はすぐ感情的になって

 と言われると、むっ、と思う。どれほど普段信頼している相手であっても、ここから先は少し用心して聞かなければいけないぞ、という構えになる。 「彼女はすぐ感情的になって、困るんだよね。そうなるともうこっちの言うことも聞いてく…

 と言われると、むっ、と思う。どれほど普段信頼している相手であっても、ここから先は少し用心して聞かなければいけないぞ、という構えになる。

「彼女はすぐ感情的になって、困るんだよね。そうなるともうこっちの言うことも聞いてくれないし、会話が成立しなくなっちゃう」

 とこぼしたのは男友だちだ。恋人とのコミュニケーションがうまくいかないという。肩をすくめるようなその調子からは、単なるその場のコミュニケーションのすれ違い以上に、恋人の態度にほとほと困らされている彼の日常的なありようが見て取れる。その、「だけ」というのに、わたしは興味を惹かれる。「自分は、そこまで過大な要求をしたり、彼女にひどいことをしているわけではないよね?」と確認するような、「だけ」。

「彼女のほうも、感情的になりたいわけではなくて、普通にあなたと話したい『だけ』なんじゃないの?」

 そういうと、うーんという。まあ、言いたいことはわかるが、実際そううまくいくわけではないんだよね、の、うーんだ。

 確かに、わたしもそう言いたくなるときはある。まず、わたしも論理のことが好きだ。子どもに読み書きを教えている身であり、自分自身も文章や詩を書いていて、論理のことはときに美しい建築やベースラインのように、ときに心を許せる先生のように思っている。どんなにささやかな文章、また情緒的な文章だったとしても、そこに通底する論理がなければ、読んでいても愉しみがない。なにより気持ちいいのは、頭のなかで考えていたことにすらっと一本の線が通るときだ。混沌とした事象が、ぱちっぱちっと音を立てるようにつながって、自分の考えがとても自然に、スムースに感じられる。
 しかし、それが会話の中で起きたとき、ふと相手の言っていることが分からなくなることがある。最初の地点からひとつずつ普通につなげていけば必然わたしと同じ結論になるはずなのに、この人はさっきから何をめちゃくちゃなことを言っているのか、と思う。しかしその分からなさとは裏腹に、相手の気持ちや思惑のほうばかりが声色や言葉尻からびんびん伝わってきてしまったりする。わからないのに、痛いほど、わかる。それがまた疎ましく、居心地が悪い。それで、「なんだ、要するにお前はさびしいだけじゃないか! だからって論理的でないことばかり言いやがって……」となるわけだ。

 ところで、六年生の塾生は作文を書き上げた。テーマは、ずばり「可愛い」について。掲載許可をもらったので、以下に冒頭を抜粋する。

 いとこの家に遊びに行ったときに、車から道路と道路の真ん中にある芝生でシルバーカーにすわり、一人でお茶会をしているかのようにゆっくり、のんびりとお茶を飲んでいるおばあちゃんが見えた。そのおばあちゃんを見て私は可愛いと思った。
 そもそも可愛いとはなんだろう。私はふだん流行りのふくやふくのくみあわせ、かみがた、メイク、イラストだったりとかそういう物を可愛いと思っている。ところがおばあちゃんのふくもかみも可愛くはなかった。

 おもしろい書き出しだと思う。生活に基づいていて、しかも当たり前に信じられていることをきちんと疑い、読者をどきっとさせる。想像されるおばあちゃんの姿、「一人でお茶会をしている」なんていう表現にもおかしみがある。
 ところが、ここまで書いて筆が止まった。「自分でも可愛いとはなにかわからないまま書きはじめてしまって、どう続けていいかわからない」という。そういうときには、少し話をする。

「おばあちゃんの服も髪もかわいくはなかったけど、でも可愛かったんだよね?」
「うん」
「可愛かった理由はわからなくても、可愛かったなあ! という気持ちは◯◯さんの中にあるわけだよね。それがどんなふうだったかをそのまま書いてみたら?」

 すると、こんなような内容の続きが出てきた。「おばあちゃんを可愛いと思う気持ちは、赤ちゃんを可愛いと思う気持ちと似ていた。赤ちゃんとおばあちゃんには、無邪気さという共通点がある」……なるほど。分析が何歩か進んだ。
 そこで、本人としてはかなり、発見! という気持ちになったらしく、「できた!」という。けれども、まだ終われない。このときわたしが考えていたのは、彼女の題材で大切なのは、「おばあちゃんが可愛かった」という具体的な体験以上に、「普段可愛いと思っていること以外の『可愛い』を発見した」ということなのではないか、ということだった。そしてそこには、どんなにささやかだとしても、なにかしら論理があるだろうと思っていた。

「うーん。もうちょっと書かないと終われないかも!」
「えー。もう書くことないよ」
「でもね、この文章は、『そもそも可愛いとはなんだろう』という疑問からはじまっているよね。『おばあちゃんの可愛さとはなんだろう』という疑問からはじまっていればこれで終われるかもしれないけど、これだとまだ最初の疑問に答えていないよ」
「たしかに」
「というか、この書き出しから読みはじめたら、どんな内容でもいいから『可愛いとはなにか』になにか答えがほしくなるよ」
「たしかに……なんか、可愛いにはいろいろあって、ぜんぶ違う感じなんだよね……」
「おお?」
「服とかは、これが可愛い! って決まってるって感じ。でも、おばあちゃんは、ただ、そこにいて、可愛い、って感じ」
「決まってるって、だれが決めるの?」
「インフルエンサーとか、世間の人……」
「あっ、そうなんだ、たしかに、インフルエンサーはあんまりおばあちゃんのこと可愛いって言わなそう」
「(笑)」
「じゃあ、誰かに決められた可愛いと、そうじゃない可愛いがあるってことだね」
「うん、『思う』可愛いと、『感じる』可愛いがあるって感じ」
「えっ、それめっちゃいいじゃん!」

 いくらか省略してはいるが、おおむねこんなやりとりを経て、作文はこのようにしめくくられた。

 「思った」というよりも「感じた」のだ。自分の体が勝手にそう感じ取ったのだ。つまりは、可愛いには、「インフルエンサーや世間が決めた理屈がはっきりあって頭で『思う』可愛い」と、「何か無邪気なものを見て、体で『感じる』可愛い」がある。

 わたしはこの文章とプロセスとを、とても論理的であると思う。もちろん構成や細かな表現には直せるところもあるけれども、自分が漠然と感じたある事象に言葉を与え、筋道を与えて、共通点を探して比較し、分析し、分類し、自分の立てた問いに答えるとき、彼女のなかで働いていたのは論理の力にほかならない。
 そして、こうも思う。よく、論理的であることと客観的事実であることが混同されるけれども、実際のところ、その両者はイコールではない。「自分はかくも論理的である!」と思っているときにはそれこそがただ一つの事実のように感じやすいけれども、論理というのはむしろ、混沌とした事象にどのように線を引くか、ということであって、それは凛と立つ主観そのものではなかろうか。事象はいつでも混沌としている。わけもなくおばあちゃんは座っており、そして、わけもなく、「可愛い」と感じる。そこに、どうにか仮説を立て、ある筋道を引いた。それは主観であって、なおかつ論理である。そうであってこそ、インフルエンサーのいう「可愛い」とは別の「可愛い」、誰にも共感されないかもしれないが確かにある「可愛い」を、論理でもって自分の中に樹立することができるのではないか。

 と思えば、だれかとの話が噛み合わなくなっていくときには、自分がいかに論理的であるかを考えるよりもむしろ、相手がいかに論理的であるかを考えるのがいいかもしれない。ひとつの混沌とした事象に、二本の線がどのように引かれているのかを、ふたり眺めてみるといいのかもしれない。
 もし、今度だれかに「俺は論理的に話したいだけなんだけど」と言われたら、そんなふうに話してみよう。想像してみる。

「俺は論理的に話したいだけなんだけど、彼女はすぐ感情的になるんだよね」
「うんうん、でもさ、このあいだ作文を教えながら考えたんだけど、論理というのはかぎりない主観であってさ、同じ事象であっても人それぞれに論理はあって、でもその論理がそれぞれ違うわけじゃんね?」
「……あのさあ、俺は彼女のことを話しただけなのに、女性全体を悪く言われたように思えたからって、そんなに感情的にならないでよ」

 うーん。まあ、実際そううまくいくわけではないんだよね。

 ちなみに、詩を書いていると話すと、ときどき言われること。
「詩は、論理じゃなくて感覚なのがいいですよね!」
 これも、むっ、と思う。言わんとすることはわかるが、それだけではない。

背後


 これなんか、論理そのものじゃないか。そして、それが詩的なおもしろさに直結しているじゃないか。

わたしはね、もう、これでいくのよ

 結婚して二年になるが、遊びで愛をやっているわけではない。  夫がわたしのなにに惹かれて結婚したのかは一向に合点がいかないままだが、夫がいまわたしにされて最も不快で、悲しくて、自尊心を傷つけられることがなにかはわかる。そ…

 結婚して二年になるが、遊びで愛をやっているわけではない。
 夫がわたしのなにに惹かれて結婚したのかは一向に合点がいかないままだが、夫がいまわたしにされて最も不快で、悲しくて、自尊心を傷つけられることがなにかはわかる。それは、夫の運転中にわたしが事故の心配をすること。とくに、夫が眠ってしまうのを心配すること。

 夫とわたしとはおおむね(あくまでおおむね)同じくらいの資本レベルで暮らしていて、金銭感覚も似ていれば味覚も似ていれば許せるブラックジョークの幅も政治に対する関心のほどもおおむね同じ、というふたりだが、唯一大きく資本レベルがかけ離れているのが、睡眠だ。
 自分でいうのもなんだが、わたしほど睡眠が豊かな人はそうそういない。わたしはどこでもかしこでもすぐ爆睡できる。枕が変わろうが国が変わろうがまったく問題なし、騒音も余裕、就活の合間には有楽町や六本木の路上で眠り、翌朝が早い夜は平気で十八時に就寝し、ひとり旅のときには基本夜行バスで移動して、ほとんど箱のようなゲストハウスに好んで泊まる。どんなところでも眠れば回復してぴゃきぴゃき動き、朝五時に夜行バスを降りた直後にラーメンを食べたりする。眠ること自体も好きで、生活に欠かせない快楽だと思っている。食事と睡眠を選ばないといけないとしたら睡眠をとるかもしれない。
 そして、わたしから見ると夫の睡眠はひどく貧しく、もう、けなげにさえ見える。夫の睡眠はつねに不随意で、見たがっていた映画を見ていても急に眠ってしまう、わたしと話していても文節の途中で眠ってしまう、なにかに襲われたり、さらわれたりしているかのよう。そのくせ眠りが浅く、すぐにまた起きてしまう。それがまた次の強烈な眠気を誘う、という悪循環は、まさに貧困を連想させる。眠りざまも気の毒なほど苦しそうで、いつもうっすら唇をあけて、喉の奥でなにかモニャモニャうめき、そして、悲鳴のようないびきをかく(だから、世に聞く「結婚相手の寝顔を見て幸せな気分に浸る」というのがわからない。夫の寝顔は憐みを誘うばかりで、それは愛とは遠い)。
 夫を見ていると、自分にとって単なる甘美な娯楽だった睡眠が、ひどく剣呑で不吉な、姿の見えない外敵に感じられる。そして、そんなものに蹂躙されているかのような夫のすがたは、わたしにとっても不快で、怖い。結婚したばかりのころこんな詩を書いたほどだ。

———

あえない敗け

うちには
早く眠る人がいて
部屋の暗いほうから
鼻か喉かの音が聞こえる
さっきまで明るいほうにともにいたのに
あっちにいったまま
戻ってこない

ひっぱりこまれる間ぎわの君が
不随意な声でしゃべるのが
嫌いだ
強権や
平手打ちやアルコールや
円陣のかけごえ
それから具合のいい女性器とやらをはさんだパン
そのほかわたしの嫌いなもののみんなが
きみの肉体を打ち負かすのを連想させる
あえない声

目覚めてみなければ
自分が眠っていたとは気づけない
早く眠る人は早くに起き
眠っているわたしを残して出ていく
わたしも
平伏しているようにみえただろうか
わたしは何に敗けてみえるだろう
君もこんなに悔しいだろうか

———

 そんな夫が運転をするので、ちょっと夫が目をこすったりすると、わたしはあわてる。夫があのおそろしい眠気の手にかかって、なにもかもおしまいにしてしまうのではないかと思うのだ。わたしは、突然運転席の夫の身体がぐらっと傾き、その勢いで反対車線へハンドルが切られることを想像する。または、夫の重たい足が赤信号でもかまわずにアクセルを押しこみつづけ、交差する車線をこちらへ飛ばしてきたトラックが、真横から夫の身体をスクラップにするところを想像する。または、橋の上を走っていたと思ったら次の瞬間欄干をぶち破って空中へ放り出され、鋼のような水面が迫ってくるところを想像する———それで、わたしは夫が運転している間、つねに夫の声色や目つきの変化に目を光らせ、想像するかぎりの大惨事をどうにか防ごうとしたくなる。
 そして、それは夫にとってはなにか癇に障ることのようで、わたしが心配しているとめずらしく苛立ち、「疲れてるんなら寝たらいいのに」などと勧め、それでもわたしが絶対に眠らないことにさらに苛立ち、わたしが父の運転だと眠れることに嫉妬さえする。そう、どこでもぐっすり眠るわたしは、夫の運転する車でだけは眠らないのだった。

 ところが、一度だけ、それがどうしようもなくなったことがある。その日はプレッシャーのかかる仕事の帰り道で、もう、くたくただった。
わたしが助手席でぐったりしているのを見て、夫はしめたとばかりに「おれは眠くないから、眠っていいよ」と言ってくる。姑息にもわたしに、「一度眠ってみたら、大丈夫だった」という成功体験を積ませようとしているのである。ふだんだったら絶対に寝ない……ところだったが、そのときばかりは、身体の方が先に限界だった。ついにうつらうつらしはじめて、わたしは、ぼんやりと考える……じゃあ、もう、死んでもいいか……。バラバラに死ぬよりは、ふたりいっぺんに死ぬほうが……怯えながら死ぬよりは、眠ったまま死ぬほうが…………。
 そうしてつぎに目を覚ましたときには、自宅の駐車場に着いていた。わたしを殺さずに済んだ運転席の夫は、なにか得意げにエンジンを切り、ごていねいに助手席のドアを開けて、わたしをエスコートまでしてみせた。
 ここで起きている、わずかなズレ。夫が、「やっとおれの運転を信頼してもらえたのかもしれない」ぐらいに思っている一方、わたしは死ぬ覚悟までしている。夫の運転が安全だと思ったわけでは到底なく、ただ、いたずらに夫の提案をそのまま受け入れ、その最悪の結果まで受け入れると決めただけ。それははたして信頼と呼べるのか。

 夫への信頼について考えるとき、思い当たることがある。
 デリカシーがなく、しばしばいらんことを言ってくる悪友がいる。いい友だちだが、いいやつではない(真逆の人もよくいる)。そいつが結婚以前からよく、「君の彼氏も浮気のひとつやふたつするかもよ」などと言ってわたしをからかう。結婚するまでは、「う〜ん、そうかな、そうなったらどうしようかな……」と歯切れの悪い返事をしていたわたしだったが、それが結婚してしばらくして以降、
「君の夫も浮気のひとつやふたつ、するかもよ」
「しないのよ」
と即答するようになったので、悪友はその変化を気味悪がっている。
「いやそれ怖いんだよな。急になに?」
「しないのよ。わたしはね、もう、これでいくのよ」
 そう、もう、これでいくのだ。
 実際、夫はわたしとは別の、かつ日々変化し続ける人間であって、夫がなにをするとも、なにをしないとも言いきれない。それは不安といえばいつでも不安だが、わたしがそのことについて予測を立てようとしても意味がない。だからどこかで覚悟を決める。この場合は、結婚、という契約そのものよりもむしろ、生活を共にするようになったことが、わたしにとってその「どこか」になった。これまでが大丈夫だったからと言ってこの次も大丈夫であるわけがないが、思い切って「これまで」が続くほうに賭けてみる。これは、ほとんど信頼といっていいのではないか。ちょっと乱暴で、つたないけれど。

 前回の記事でも書いたけれど、賞味期限が過ぎた肉を、夫は平気で食べる。はじめは心底ぞっとしていたけれど、しだいに、わたしも少しずつ食べてみるようになった。そのときも、「わたしはいま腐った肉を食べているな」と思っていないと言ったらうそになる。けれども、夫が大丈夫だというから、ともかく口に入れて、飲み込む。それでお腹を壊したり、最悪食中毒で入院するはめになったりしても、自分で責任をとることができるからだ。浮気されたとしてもそう、した方にはした方の責任があるとしても、わたしもわたしで信頼しただけの責任をどうにかとるのだろう。それは、あとになって「やっぱり信頼しなくてよかった」と言いたくなるのをこらえて、「わたしは信頼したけれども、裏切られた」と言い切ることであるかもしれない。裏切られただけの痛みをうけることであるかもしれない。

 でも、生き死にの話となると、それがそう身軽にはいかない。死だけは、他のこととは比べものにならないほど不可逆で、生命でもって責任をとらされるのはさすがにイヤだ。どれほど鷹揚にかまえていようとしても、そこでつい力が入る。自分が正しいと思う方に踏みとどまりたくなってしまう。
次に車に乗るときも、わたしは目をどうにか開いていようとして夫を苛立たせ、ときに悲しい気持ちにさせるだろう。そこで、やっぱりどうしても夫を、ひいては他人を信頼しきれない。おかげでけったいな勧誘にひっかかったりしづらそうなのはいいけれど、どこか、さみしいような、なさけないような気もする。
 そう思うと、あのとき、助手席でぐったりと眠りについたときの、もうろうとした意識の身軽さが、なつかしい。「死んでもいい」と思うなんて、夫の望む信頼とはたしかに少しズレているけれども、しかし覚悟を決めることを信頼とするならば、それ以上の信頼があるだろうか。健常な意識からは、どこか、あこがれさえ覚える。異常なほどの、剥き出しで丸ごとの信頼。それが眠気にまかせていっときわたしの身体に降りてきた、という、おぼろげな記憶がまぶしい。

 わたしは想像する。夫の運転にゆられて眠りにつき、大きな衝撃で目を覚ます。次の一瞬にはもう、わたしたちは終わりだ、とわかる。そして、ああ、死んでもいい、この人を信頼して死ぬのなら、ここで終わりでいい、これでいい、と思う。本当にそうなるかはさておき、ぞっとしながら、しかしうっとりと想像する。

(撮影:クマガイユウヤ)

性加害と戦うことを表明したときに言うべきことは「最高にクールでドープですね」だろうが

 およそ一年前、性被害に遭ったことを公表した。公表に至るまでの詳しい経緯はnoteに書いているのでそちらを参照してください。  もともとこのnoteは、これから性被害を告発しようと思っている人の役に立てば、と思って書いた…

 およそ一年前、性被害に遭ったことを公表した。公表に至るまでの詳しい経緯はnoteに書いているのでそちらを参照してください。
 もともとこのnoteは、これから性被害を告発しようと思っている人の役に立てば、と思って書いたものだ。いまでもその思いは変わらない。そして、ここで書いているのはネット上で公表するまでに起きたできごとや心情の変化についてだけで、いまではそれだと片手落ちであると感じている。この記事を出してからも本当にいろいろなことが起きた。一年かかってしまったけれど、「性被害を公表したあとに起きること」についても書きのこしておきたい。

 公表する段階で、わたしはかなり身構えているつもりだった。どんな誹謗中傷、いわゆる二次加害も受け付けない自信があった。なぜなら、だいたいの二次加害は推敲にかかる自問自答のなかですでに終えていたから。

「きちんと拒まなかったお前に非があるのでは?」

「傷つくほどのことではないのでは?」

「売名・慰謝料・その他もろもろが目当てで話を盛っているのでは?」

「炎上の勝ち馬に乗りたいだけでは?」(※noteを読んでいただけるとわかるが、わたしが公表したのは、すでに同じ加害者による別の被害が明るみに出たあとのことだった)

 そのように自分自身が投げかけてくるひどいことごとをくぐりぬけてきたおかげで、いまやわたしはそのすべてに胸を張ってこう答えられる———「いいえ!」
けれども、実際にわたしのところに集まってきたのは、練習してきたようなののしり文句ではなく、たくさんの「おつらかったでしょう」だった。二次加害の練習問題を済ませてきたぐらいでは所詮丘サーファー、わたしは張っていた胸をちぢこまらせて、小さな声で答えるしかなかった。はい、まあ、そうですね、つらかったです。
 そう答えるたびに、わたしは自信をなくした。被害を公表すると決めたとき、「自分はひどいことをされたのだ」ということをなんとか受け入れた気でいたけれど、それをいろんな人から何度も、何度も言われるのは、やはりつらかった。自分の弱さを、外がわからくりかえし呼びかけられ、背負わされる。それは同時に正しさを背負わされることでもあった。徹底してわたしに非はない(これは、前述の自問自答のとおり)ということが、おそろしい。両成敗にしてはいけない立場にあることがおそろしい。わたしがなにか言えば加害者への集中攻撃に転じてしまいそうであり、またわたしがなにか間違えば、一転してこちらが糾弾されそうでもあった。言葉によって「被害者である」という立場へ追い込まれていくことは、わたしにとっては身動きを封じられるような強い恐怖になった。
 わたしは、あくまで自分の戦いをひとりで戦いながら、別のところでひとりで戦わざるをえない性被害者たちへのはなむけとして公表をしたつもりだった。けれども、ともすると、わたしひとりのものだったはずの戦いが「みんなの戦い」のほうへ引き込まれそうになる。「みんなの戦い」は時にそれ自体暴力的で、わたしの望んだことではない。連帯することと、袋叩きにすることとは違う。みんなの尊厳のために個別の戦いを戦うことと、個別の戦いを「みんなの戦い」へ読み替えることとは違う。「おつらかったでしょう」といわれるたび、わたしはくちびるをぐっと噛んでこらえる必要があった。自分自身、被害者という立場の無反省な正しさにおもねそうになるのを、強くいましめなければいけなかった。

 それから、「おつらかったでしょう」よりさらにイヤだったのが、「なにかあったら話聞くよ」だった。これも何件も届いた。わたし自身の偏見がこもっていないか慎重に検分しながら述べるが、そう言ってくるのはかならず男性で、そしてかならず公開コメントではなく非公開の個別メッセージだった。親密な男性ならまだわかる。そうではなくて、何年も連絡をとりあっていないような男性から、突然「久しぶり! 大変だったんだね。俺でよければいつでも話聞くよ!」と来る。こちらからしてみれば、俺でいいわけないだろ! である。プライベートどころか仕事の相談すらそんなにしたことがない異性に、いきなり性被害について話すわけないだろ!
 全員が全員そこから悪意を持って二次加害を……とまで決めつけるつもりはないにしても、とにかくその鈍さには辟易させられた。親しい友だちに、「わたしはサポーターがほしいのに、みんな前のめりでベンチに入ろうとしてくる」とこぼしては、まあまあ、となぐさめられた。
 そうして、なぜ人は知り合いが性被害を公表したときに「いつでも話聞くよ!」という個別メッセージを送りたくなってしまうのか、ということについて、考えざるをえなくなった。
 ある同年代の男性からは、「いつでも話聞くよ」を通り越して、「どんな言葉をかければあなたの気持ちが安らぐかわからないし、何かを書いたら安らぐと思うこと自体傲慢と感じる。こんなことを書いても免罪符にはならないと思うけど、この件に自分なりに向き合っていきたい」というようなメッセージが来た。いうまでもなく彼は加害者本人ではなく、(少なくともわたしに対しては)過去に性加害をしてきたわけではない。わたしに対してなにかしてやりたいらしいのはどうにか伝わってくるけれど、それがなぜなのか、そしてなにをしてくれるのかはまったくわからない……。しばし困惑したが、何通かメッセージをやりとりするうちにわかってきたのは、彼がわたしの性被害を知ったことでひどく動揺し、それをわたしへのメッセージにぶつけているらしいことだった。
 わたしからは、以下のように返信した。

まず、気にかけてくれたことはすごくありがたいと思っていることを伝えておきます。
何かしたいと思う反面ですごく無力感を感じるんだろうし、なにか罪悪感のようなものさえあるように見えます。そういう状態はしんどいから、ためらいつつも言葉にして外に出してしまいたくなるのもよくわかります。
よくわかる一方で、被害者の目線としては、当然◯◯くんから何かされたとは思っていません。◯◯くんに対して怒る気持ちもないし、◯◯くんが義務のようにわたしに対して何かしなければいけないとは感じません。
少なくとも、わたしに対して◯◯くんのしんどさを伝えてもらっても、◯◯くんがしんどいのは本当によくわかるけれども、そのしんどさは立場的にわたしにケアできるものではないかも……ぐらいのことしか言えません。
性加害と戦う立場でありたいという気持ちに共感します。お互いしんどいところですが、がんばりましょうね。

 心配してくれた相手に対してちょっとイヤなやつすぎるだろうか、と悩みもしたけれど、このときはこう言わざるをえなかった。彼とのやりとりを通じて、どこかウェットなメッセージを送ってくる男性たちに対しても、ある仮説が立った。男性のうち一部の人たちは、身近で起きた性被害を見ると、無力感がそうさせるのか、はたまた男性としての社会的アイデンティティとの不和がそうさせるのかわからないが、自分が責められているように居心地悪く感じるのかもしれない。そして、その罪悪感から逃れるために、急いでこのかわいそうな被害者に何かしてやらないといけないような気分になるのかもしれない(◯◯くんは後日、このメッセージのやりとりをわたしがこのように明かすことに快諾してくれた)。
 これも念のため述べておくと、ほかの男性たちからのウェットでない連帯は本当にありがたかった。それはわたしへの個別メッセージではなく、SNS上でのわたしの記事のシェアや、noteへの金銭的なサポートによって行われた。実利がどうこうというよりも、他者であるわたしとの関係を踏まえた上での適切な距離感をまず考えてくれ、その中でできる支援をしてくれた、ということがうれしかった。まさにそのような距離感こそ、そのときのわたしが飢えていたひとりの人間としての尊重そのものであって、だから新鮮な栄養のようにうれしく感じられた(そう自覚できたのはあとになってからのことだった)。
 もちろん、多くの女性とわずかな男性からの「尊敬します!」「かっこいいです!」「応援するよ!」という表明も、とてもよいものだった。「つらかったでしょう」「話聞くよ」とはぜんぜん違う。そういった言葉は、わたしが「かわいそうで、弱い被害者」ではなく、「被害を受けて行動したいち個人」であることを強く支えてくれた。また、男性たちの一部がなんだか意気消沈していたのとは対照的に、女性たちの一部はどこか上気していた。敬愛する年上の女性は「終わったらお祝いにケーキ食べに行きましょうね🌹」と絵文字つきのLINEをくれ、その不思議なハレの空気も、わたしには助けになった。