わたしはね、もう、これでいくのよ | ことぱ舎
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詩と読みものReadings

わたしはね、もう、これでいくのよ

 結婚して二年になるが、遊びで愛をやっているわけではない。
 夫がわたしのなにに惹かれて結婚したのかは一向に合点がいかないままだが、夫がいまわたしにされて最も不快で、悲しくて、自尊心を傷つけられることがなにかはわかる。それは、夫の運転中にわたしが事故の心配をすること。とくに、夫が眠ってしまうのを心配すること。

 夫とわたしとはおおむね(あくまでおおむね)同じくらいの資本レベルで暮らしていて、金銭感覚も似ていれば味覚も似ていれば許せるブラックジョークの幅も政治に対する関心のほどもおおむね同じ、というふたりだが、唯一大きく資本レベルがかけ離れているのが、睡眠だ。
 自分でいうのもなんだが、わたしほど睡眠が豊かな人はそうそういない。わたしはどこでもかしこでもすぐ爆睡できる。枕が変わろうが国が変わろうがまったく問題なし、騒音も余裕、就活の合間には有楽町や六本木の路上で眠り、翌朝が早い夜は平気で十八時に就寝し、ひとり旅のときには基本夜行バスで移動して、ほとんど箱のようなゲストハウスに好んで泊まる。どんなところでも眠れば回復してぴゃきぴゃき動き、朝五時に夜行バスを降りた直後にラーメンを食べたりする。眠ること自体も好きで、生活に欠かせない快楽だと思っている。食事と睡眠を選ばないといけないとしたら睡眠をとるかもしれない。
 そして、わたしから見ると夫の睡眠はひどく貧しく、もう、けなげにさえ見える。夫の睡眠はつねに不随意で、見たがっていた映画を見ていても急に眠ってしまう、わたしと話していても文節の途中で眠ってしまう、なにかに襲われたり、さらわれたりしているかのよう。そのくせ眠りが浅く、すぐにまた起きてしまう。それがまた次の強烈な眠気を誘う、という悪循環は、まさに貧困を連想させる。眠りざまも気の毒なほど苦しそうで、いつもうっすら唇をあけて、喉の奥でなにかモニャモニャうめき、そして、悲鳴のようないびきをかく(だから、世に聞く「結婚相手の寝顔を見て幸せな気分に浸る」というのがわからない。夫の寝顔は憐みを誘うばかりで、それは愛とは遠い)。
 夫を見ていると、自分にとって単なる甘美な娯楽だった睡眠が、ひどく剣呑で不吉な、姿の見えない外敵に感じられる。そして、そんなものに蹂躙されているかのような夫のすがたは、わたしにとっても不快で、怖い。結婚したばかりのころこんな詩を書いたほどだ。

———

あえない敗け

うちには
早く眠る人がいて
部屋の暗いほうから
鼻か喉かの音が聞こえる
さっきまで明るいほうにともにいたのに
あっちにいったまま
戻ってこない

ひっぱりこまれる間ぎわの君が
不随意な声でしゃべるのが
嫌いだ
強権や
平手打ちやアルコールや
円陣のかけごえ
それから具合のいい女性器とやらをはさんだパン
そのほかわたしの嫌いなもののみんなが
きみの肉体を打ち負かすのを連想させる
あえない声

目覚めてみなければ
自分が眠っていたとは気づけない
早く眠る人は早くに起き
眠っているわたしを残して出ていく
わたしも
平伏しているようにみえただろうか
わたしは何に敗けてみえるだろう
君もこんなに悔しいだろうか

———

 そんな夫が運転をするので、ちょっと夫が目をこすったりすると、わたしはあわてる。夫があのおそろしい眠気の手にかかって、なにもかもおしまいにしてしまうのではないかと思うのだ。わたしは、突然運転席の夫の身体がぐらっと傾き、その勢いで反対車線へハンドルが切られることを想像する。または、夫の重たい足が赤信号でもかまわずにアクセルを押しこみつづけ、交差する車線をこちらへ飛ばしてきたトラックが、真横から夫の身体をスクラップにするところを想像する。または、橋の上を走っていたと思ったら次の瞬間欄干をぶち破って空中へ放り出され、鋼のような水面が迫ってくるところを想像する———それで、わたしは夫が運転している間、つねに夫の声色や目つきの変化に目を光らせ、想像するかぎりの大惨事をどうにか防ごうとしたくなる。
 そして、それは夫にとってはなにか癇に障ることのようで、わたしが心配しているとめずらしく苛立ち、「疲れてるんなら寝たらいいのに」などと勧め、それでもわたしが絶対に眠らないことにさらに苛立ち、わたしが父の運転だと眠れることに嫉妬さえする。そう、どこでもぐっすり眠るわたしは、夫の運転する車でだけは眠らないのだった。

 ところが、一度だけ、それがどうしようもなくなったことがある。その日はプレッシャーのかかる仕事の帰り道で、もう、くたくただった。
わたしが助手席でぐったりしているのを見て、夫はしめたとばかりに「おれは眠くないから、眠っていいよ」と言ってくる。姑息にもわたしに、「一度眠ってみたら、大丈夫だった」という成功体験を積ませようとしているのである。ふだんだったら絶対に寝ない……ところだったが、そのときばかりは、身体の方が先に限界だった。ついにうつらうつらしはじめて、わたしは、ぼんやりと考える……じゃあ、もう、死んでもいいか……。バラバラに死ぬよりは、ふたりいっぺんに死ぬほうが……怯えながら死ぬよりは、眠ったまま死ぬほうが…………。
 そうしてつぎに目を覚ましたときには、自宅の駐車場に着いていた。わたしを殺さずに済んだ運転席の夫は、なにか得意げにエンジンを切り、ごていねいに助手席のドアを開けて、わたしをエスコートまでしてみせた。
 ここで起きている、わずかなズレ。夫が、「やっとおれの運転を信頼してもらえたのかもしれない」ぐらいに思っている一方、わたしは死ぬ覚悟までしている。夫の運転が安全だと思ったわけでは到底なく、ただ、いたずらに夫の提案をそのまま受け入れ、その最悪の結果まで受け入れると決めただけ。それははたして信頼と呼べるのか。

 夫への信頼について考えるとき、思い当たることがある。
 デリカシーがなく、しばしばいらんことを言ってくる悪友がいる。いい友だちだが、いいやつではない(真逆の人もよくいる)。そいつが結婚以前からよく、「君の彼氏も浮気のひとつやふたつするかもよ」などと言ってわたしをからかう。結婚するまでは、「う〜ん、そうかな、そうなったらどうしようかな……」と歯切れの悪い返事をしていたわたしだったが、それが結婚してしばらくして以降、
「君の夫も浮気のひとつやふたつ、するかもよ」
「しないのよ」
と即答するようになったので、悪友はその変化を気味悪がっている。
「いやそれ怖いんだよな。急になに?」
「しないのよ。わたしはね、もう、これでいくのよ」
 そう、もう、これでいくのだ。
 実際、夫はわたしとは別の、かつ日々変化し続ける人間であって、夫がなにをするとも、なにをしないとも言いきれない。それは不安といえばいつでも不安だが、わたしがそのことについて予測を立てようとしても意味がない。だからどこかで覚悟を決める。この場合は、結婚、という契約そのものよりもむしろ、生活を共にするようになったことが、わたしにとってその「どこか」になった。これまでが大丈夫だったからと言ってこの次も大丈夫であるわけがないが、思い切って「これまで」が続くほうに賭けてみる。これは、ほとんど信頼といっていいのではないか。ちょっと乱暴で、つたないけれど。

 前回の記事でも書いたけれど、賞味期限が過ぎた肉を、夫は平気で食べる。はじめは心底ぞっとしていたけれど、しだいに、わたしも少しずつ食べてみるようになった。そのときも、「わたしはいま腐った肉を食べているな」と思っていないと言ったらうそになる。けれども、夫が大丈夫だというから、ともかく口に入れて、飲み込む。それでお腹を壊したり、最悪食中毒で入院するはめになったりしても、自分で責任をとることができるからだ。浮気されたとしてもそう、した方にはした方の責任があるとしても、わたしもわたしで信頼しただけの責任をどうにかとるのだろう。それは、あとになって「やっぱり信頼しなくてよかった」と言いたくなるのをこらえて、「わたしは信頼したけれども、裏切られた」と言い切ることであるかもしれない。裏切られただけの痛みをうけることであるかもしれない。

 でも、生き死にの話となると、それがそう身軽にはいかない。死だけは、他のこととは比べものにならないほど不可逆で、生命でもって責任をとらされるのはさすがにイヤだ。どれほど鷹揚にかまえていようとしても、そこでつい力が入る。自分が正しいと思う方に踏みとどまりたくなってしまう。
次に車に乗るときも、わたしは目をどうにか開いていようとして夫を苛立たせ、ときに悲しい気持ちにさせるだろう。そこで、やっぱりどうしても夫を、ひいては他人を信頼しきれない。おかげでけったいな勧誘にひっかかったりしづらそうなのはいいけれど、どこか、さみしいような、なさけないような気もする。
 そう思うと、あのとき、助手席でぐったりと眠りについたときの、もうろうとした意識の身軽さが、なつかしい。「死んでもいい」と思うなんて、夫の望む信頼とはたしかに少しズレているけれども、しかし覚悟を決めることを信頼とするならば、それ以上の信頼があるだろうか。健常な意識からは、どこか、あこがれさえ覚える。異常なほどの、剥き出しで丸ごとの信頼。それが眠気にまかせていっときわたしの身体に降りてきた、という、おぼろげな記憶がまぶしい。

 わたしは想像する。夫の運転にゆられて眠りにつき、大きな衝撃で目を覚ます。次の一瞬にはもう、わたしたちは終わりだ、とわかる。そして、ああ、死んでもいい、この人を信頼して死ぬのなら、ここで終わりでいい、これでいい、と思う。本当にそうなるかはさておき、ぞっとしながら、しかしうっとりと想像する。

(撮影:クマガイユウヤ)