俺は論理的に話したいだけなんだけど、彼女はすぐ感情的になって | ことぱ舎
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詩と読みものReadings

俺は論理的に話したいだけなんだけど、彼女はすぐ感情的になって

 と言われると、むっ、と思う。どれほど普段信頼している相手であっても、ここから先は少し用心して聞かなければいけないぞ、という構えになる。

「彼女はすぐ感情的になって、困るんだよね。そうなるともうこっちの言うことも聞いてくれないし、会話が成立しなくなっちゃう」

 とこぼしたのは男友だちだ。恋人とのコミュニケーションがうまくいかないという。肩をすくめるようなその調子からは、単なるその場のコミュニケーションのすれ違い以上に、恋人の態度にほとほと困らされている彼の日常的なありようが見て取れる。その、「だけ」というのに、わたしは興味を惹かれる。「自分は、そこまで過大な要求をしたり、彼女にひどいことをしているわけではないよね?」と確認するような、「だけ」。

「彼女のほうも、感情的になりたいわけではなくて、普通にあなたと話したい『だけ』なんじゃないの?」

 そういうと、うーんという。まあ、言いたいことはわかるが、実際そううまくいくわけではないんだよね、の、うーんだ。

 確かに、わたしもそう言いたくなるときはある。まず、わたしも論理のことが好きだ。子どもに読み書きを教えている身であり、自分自身も文章や詩を書いていて、論理のことはときに美しい建築やベースラインのように、ときに心を許せる先生のように思っている。どんなにささやかな文章、また情緒的な文章だったとしても、そこに通底する論理がなければ、読んでいても愉しみがない。なにより気持ちいいのは、頭のなかで考えていたことにすらっと一本の線が通るときだ。混沌とした事象が、ぱちっぱちっと音を立てるようにつながって、自分の考えがとても自然に、スムースに感じられる。
 しかし、それが会話の中で起きたとき、ふと相手の言っていることが分からなくなることがある。最初の地点からひとつずつ普通につなげていけば必然わたしと同じ結論になるはずなのに、この人はさっきから何をめちゃくちゃなことを言っているのか、と思う。しかしその分からなさとは裏腹に、相手の気持ちや思惑のほうばかりが声色や言葉尻からびんびん伝わってきてしまったりする。わからないのに、痛いほど、わかる。それがまた疎ましく、居心地が悪い。それで、「なんだ、要するにお前はさびしいだけじゃないか! だからって論理的でないことばかり言いやがって……」となるわけだ。

 ところで、六年生の塾生は作文を書き上げた。テーマは、ずばり「可愛い」について。掲載許可をもらったので、以下に冒頭を抜粋する。

 いとこの家に遊びに行ったときに、車から道路と道路の真ん中にある芝生でシルバーカーにすわり、一人でお茶会をしているかのようにゆっくり、のんびりとお茶を飲んでいるおばあちゃんが見えた。そのおばあちゃんを見て私は可愛いと思った。
 そもそも可愛いとはなんだろう。私はふだん流行りのふくやふくのくみあわせ、かみがた、メイク、イラストだったりとかそういう物を可愛いと思っている。ところがおばあちゃんのふくもかみも可愛くはなかった。

 おもしろい書き出しだと思う。生活に基づいていて、しかも当たり前に信じられていることをきちんと疑い、読者をどきっとさせる。想像されるおばあちゃんの姿、「一人でお茶会をしている」なんていう表現にもおかしみがある。
 ところが、ここまで書いて筆が止まった。「自分でも可愛いとはなにかわからないまま書きはじめてしまって、どう続けていいかわからない」という。そういうときには、少し話をする。

「おばあちゃんの服も髪もかわいくはなかったけど、でも可愛かったんだよね?」
「うん」
「可愛かった理由はわからなくても、可愛かったなあ! という気持ちは◯◯さんの中にあるわけだよね。それがどんなふうだったかをそのまま書いてみたら?」

 すると、こんなような内容の続きが出てきた。「おばあちゃんを可愛いと思う気持ちは、赤ちゃんを可愛いと思う気持ちと似ていた。赤ちゃんとおばあちゃんには、無邪気さという共通点がある」……なるほど。分析が何歩か進んだ。
 そこで、本人としてはかなり、発見! という気持ちになったらしく、「できた!」という。けれども、まだ終われない。このときわたしが考えていたのは、彼女の題材で大切なのは、「おばあちゃんが可愛かった」という具体的な体験以上に、「普段可愛いと思っていること以外の『可愛い』を発見した」ということなのではないか、ということだった。そしてそこには、どんなにささやかだとしても、なにかしら論理があるだろうと思っていた。

「うーん。もうちょっと書かないと終われないかも!」
「えー。もう書くことないよ」
「でもね、この文章は、『そもそも可愛いとはなんだろう』という疑問からはじまっているよね。『おばあちゃんの可愛さとはなんだろう』という疑問からはじまっていればこれで終われるかもしれないけど、これだとまだ最初の疑問に答えていないよ」
「たしかに」
「というか、この書き出しから読みはじめたら、どんな内容でもいいから『可愛いとはなにか』になにか答えがほしくなるよ」
「たしかに……なんか、可愛いにはいろいろあって、ぜんぶ違う感じなんだよね……」
「おお?」
「服とかは、これが可愛い! って決まってるって感じ。でも、おばあちゃんは、ただ、そこにいて、可愛い、って感じ」
「決まってるって、だれが決めるの?」
「インフルエンサーとか、世間の人……」
「あっ、そうなんだ、たしかに、インフルエンサーはあんまりおばあちゃんのこと可愛いって言わなそう」
「(笑)」
「じゃあ、誰かに決められた可愛いと、そうじゃない可愛いがあるってことだね」
「うん、『思う』可愛いと、『感じる』可愛いがあるって感じ」
「えっ、それめっちゃいいじゃん!」

 いくらか省略してはいるが、おおむねこんなやりとりを経て、作文はこのようにしめくくられた。

 「思った」というよりも「感じた」のだ。自分の体が勝手にそう感じ取ったのだ。つまりは、可愛いには、「インフルエンサーや世間が決めた理屈がはっきりあって頭で『思う』可愛い」と、「何か無邪気なものを見て、体で『感じる』可愛い」がある。

 わたしはこの文章とプロセスとを、とても論理的であると思う。もちろん構成や細かな表現には直せるところもあるけれども、自分が漠然と感じたある事象に言葉を与え、筋道を与えて、共通点を探して比較し、分析し、分類し、自分の立てた問いに答えるとき、彼女のなかで働いていたのは論理の力にほかならない。
 そして、こうも思う。よく、論理的であることと客観的事実であることが混同されるけれども、実際のところ、その両者はイコールではない。「自分はかくも論理的である!」と思っているときにはそれこそがただ一つの事実のように感じやすいけれども、論理というのはむしろ、混沌とした事象にどのように線を引くか、ということであって、それは凛と立つ主観そのものではなかろうか。事象はいつでも混沌としている。わけもなくおばあちゃんは座っており、そして、わけもなく、「可愛い」と感じる。そこに、どうにか仮説を立て、ある筋道を引いた。それは主観であって、なおかつ論理である。そうであってこそ、インフルエンサーのいう「可愛い」とは別の「可愛い」、誰にも共感されないかもしれないが確かにある「可愛い」を、論理でもって自分の中に樹立することができるのではないか。

 と思えば、だれかとの話が噛み合わなくなっていくときには、自分がいかに論理的であるかを考えるよりもむしろ、相手がいかに論理的であるかを考えるのがいいかもしれない。ひとつの混沌とした事象に、二本の線がどのように引かれているのかを、ふたり眺めてみるといいのかもしれない。
 もし、今度だれかに「俺は論理的に話したいだけなんだけど」と言われたら、そんなふうに話してみよう。想像してみる。

「俺は論理的に話したいだけなんだけど、彼女はすぐ感情的になるんだよね」
「うんうん、でもさ、このあいだ作文を教えながら考えたんだけど、論理というのはかぎりない主観であってさ、同じ事象であっても人それぞれに論理はあって、でもその論理がそれぞれ違うわけじゃんね?」
「……あのさあ、俺は彼女のことを話しただけなのに、女性全体を悪く言われたように思えたからって、そんなに感情的にならないでよ」

 うーん。まあ、実際そううまくいくわけではないんだよね。

 ちなみに、詩を書いていると話すと、ときどき言われること。
「詩は、論理じゃなくて感覚なのがいいですよね!」
 これも、むっ、と思う。言わんとすることはわかるが、それだけではない。

背後


 これなんか、論理そのものじゃないか。そして、それが詩的なおもしろさに直結しているじゃないか。