オッケー、愛情だけ受け取るね | ことぱ舎
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詩と読みものReadings

オッケー、愛情だけ受け取るね

 先にことわっておくけれども、これから書くことは断じて暗喩ではない。いくらわたしが詩人だからといって、ぜんぶの言葉に含意があると思ったら大間違い。いや、むしろ詩人だからこそ、書かれた言葉を言葉の意味そのままに受け取ることの重要性を訴えたい。常識、社会的な文脈、暗黙の了解、くそくらえ。馬と書いてあったらそこには馬がいて、愛と書いてあったらそこには愛がある、愛がなにかはわからなくともひとまず愛なるものが現実にあると仮定する、そのような素直さをもってはじめて詩が読めてくるものじゃないか。深い意味を読み取ろうとすればするほど、意味そのものからは遠く離れてしまう、そんな痛い思いは、日頃のコミュニケーションだけで十分でしょう。

 ここまで前置きをすれば大丈夫だろう。それでは聞いてください。

 夫のへたなマッサージで、もっと気持ちよくなりたい。

 

 夫はマッサージがへただ。しかしわたしが肩凝りでつらそうにしていると、必ず「マッサージしてあげようか」と言ってくれる。手が大きく、指が太くて皮膚も硬いので、どうしても大味な施術だ。そのくせやけに熱意がこもっていて、いきなりすごい圧力で押してくる。わたしとしてはもっとのんびりほぐしてもらえればいいのだが、夫のマッサージはそれを許さない。いたい、いたい、と訴えても、いいから、いいから、などといって押しつづける。凝ってるから痛いんだよ=ここはがまんしてちゃんとほぐさないと、という理屈があるらしく、わたしが痛がるほど施術態度もかたくなになる。しかたなく痛みに耐えるのだが、そのせいで身体のあちこちに変な力が入り、ことが終わったころにはかえってへとへとになってしまう。くりかえしになるが暗喩ではない。

 何度かその旨を伝えたこともある。すると一旦は力を弱めてくれるけれども、次にはまた元の「強」に戻ってしまう。マッサージをしてもらっている立場でそのたびに口を出すのもなあ……と気後れもあり、実際それで肩は楽になるということもあって、結局、うう、いたい、いたい、などといいながら甘んじて受けている。

 しかし、マッサージが終わる時の空気が釈然としない。たいてい、わたしが「もういいよ、ありがとう、もう大丈夫だから」と先に制する。すると、制されてわたしの背中側からぐるりと正面へ出てくる夫が、不満そうにしている。言いたいことはわかる。彼はとびきりの愛情でもってわたしの肩を「強」で押しているのだから、そんなふうにうんざりした感じで止めなくてもいいじゃないか、というのである。しかしこちらからしてみれば、わたしこそしばしこの痛い愛情を受け止めたのだから、もっとなにか心のかよったような終わりざまでもいいじゃないか、と思う。そして、どことなくお互いに損をしたような雰囲気だけが残る。不毛だ。夫婦のスキンシップがこんなことでいいのか。

 

 話は変わって、わたしは夫の母、つまり義母が好きだ。元来、女性から同性として女性らしさを求められることが苦手で、世に聞く「嫁・姑問題」なるものに戦々恐々としながら結婚したのに、案外あっさり好きになった。

 義母は、わたしに接するとき、こちらがドギマギするくらい気を遣う。あるとき話してくれたことによれば、義母の夫、つまりわたしの夫の父は早くに両親に先立たれていて、義母は「夫にとっての嫁」であった経験はあっても「姑にとっての嫁」であった経験がない。「姑」のモデルもいなければ、「嫁」として姑に接する気持ちもわからないという。さらに、例の「嫁・姑問題」で耳に入ってくるのはいやな話ばかり。それで、自分自身で姑のよきありかたを探りながら、おっかなびっくりわたしに接してくれているのだった。

 なにをするにも、わたしに「いやだったら言ってね」「気にしなくていいからね」と念を押し、下の名前にちゃん付けで呼びかける。その距離感がうれしい。いきなり親密にされるよりもむしろ、めいっぱい考えながら仲良くしようとしてくれているのがよくわかって、うれしい。ご飯を食べにいくと、彼女の息子であるところの夫に食事や飲みものを勧めるのと同じように、わたしにも勧めてくれる。酔っぱらうと子どもにするようにわたしのからだに気やすく触る。日頃、からだに触られることをあまり好まないわたしだが、それはふしぎにやさしく思えるのだった。さらに、義母が義理の家族といっしょにいるのを見ていると、彼女が気を遣うのはわたしに対してだけではないのもよくわかる。誰に対してもひとしく眼差しをくべて、不快な思いのする人がいないようににこにこと立ち回る。すごいなあ、と思う。

 

 ところが、夫である。姉ふたり弟ひとりの末っ子に生まれた夫は、どうやら家族のなかではまだまだ子どもであって、義母は夫のことが心配でしかたない。それで、帰省するたび夫にあれこれと問いかける。仕事はどうなの、目標はあるの、健康診断はどうだったの。そこで、問われた夫があまりにぞんざいな対応をするのに、わたしは驚く。

仕事はどうなの。
どうって、べつに、ふつうだよ。
目標はあるの。
うーん、まあ、がんばります。
健康診断はどうだったの。
なんもなかったよ。

 眉間にしわを寄せながらそんなふうに答えるので、へんにドキドキしてしまう。確かにわたしも、自分の親に子ども扱いされて疎ましく思うことはある。けれどそれにしたって、このやさしい義母にそんな頑なさを向けていいものなのか。生まれ育った家族からは一歩外がわにいるわたしだからそう思ってしまうだけかもしれないけれど、しかし、せめて「気にかけてくれてありがとう」ぐらいひとこと言ってあげたらいいじゃないか。

 わたしが口を出すわけにもいかないので黙って見ていると、義母は最後に「まあ、いいんだけど、ラインでいいからときどきどうしてるか教えてよ」と言った。夫はにぎり寿司を箸で持ったまま、はい、はいと答えた。

 その日の帰りぎわ、夫が車を出すのを待っていると、義母がわたしのところへ寄ってきた。

「今日はありがとうね、大丈夫だった? いやじゃなかった?」
「えっ、なにがですか。大丈夫ですよ」

義母は、とても酔っ払っているようだった。

「いや、わたしがあんな風に心配してたら、奥さんとしてはいやだったりするかなと思って」
「いや、ぜんぜん、そんなことないですよ」
「本当? わたしが◯◯くん(夫)のことが大好きでも、いやじゃない?」

 その瞬間、笑ってしまいそうな、それでいて涙が出そうな、なんともいえない気持ちでいっぱいになった。暗がりで、義母の瞳が一際きらめいて見えた。わたしは息を吸いこんで、答えた。

「いやなわけないじゃないですか! そんなの、いやなことなんて、ひとつもないじゃないですか!」

 わたしたちはしばし微笑みあい、夫の運転で近づいてくる車のブレーキランプに照らされていた。義母が、ありがとう、といって、わたしの腰に手をまわす。わたしはそれで図に乗って、もうひとこと付け加えた。

「おかあさんは、わたしが、◯◯くんのことが大好きでも、いやじゃないですか?」
「いやじゃない。すっごく、すっごくうれしい!」

 夫の車に乗り込んでからも、わたしはしばらく上気していた。下戸なのでお酒は飲んでいなかったけれど、頬が熱かった。なにか特別な瞬間を過ごしていたような気がした。

 

 それ以来ときどき、義母に「わたしが◯◯くんのことが大好きでも、いやじゃない?」と聞かせたのはなんなのか、考えてしまう。一般に愛情はいいものとされているけれど、しかし必ずしもそればかりではないということを、わたしたちはすでによくわかっているのではないか。愛する人の頑なさの前に立たされて、自分の愛情がぜんぜんその向こうへ通っていかないとき、愛情自体の罪深さのようなものを思い知る。愛情は本来そんなにいいものではなく、疎ましがられるほうが自然という気がしてくる。ただ相手に幸せでいてほしいと願うことさえも自分の押しつけではないかと思わされる。けれどもそこで、嫌がられることに怯え、押しつけにならないよう忍耐をし、たえず距離感を計りながらも、どうにか愛情を持ちつづけようとする、大げさな言い方になるけれど、それこそが愛といってはいけないだろうか。

 そう思うと、わたしはやはり義母のためらいを尊敬せずにはいられない。そしてあのとき、義理の娘の前にどうしてもはじけ出してしまった義母の愛情を、いとおしく思わずにはいられない。

 

 また別の日、夫の運転する車に乗りながら、わたしは菓子パンを食べていた。はじめて食べるパンで、クリームが挟まっていて、なかなかおいしい。いいねいいね。夫にもあげよう。と、思った瞬間に、夫がなにか話しかけてきたのだったが、一度動き出したわたしの動作は止まらず、ちょうど夫の口をふさぐ形でパンを押し込んでしまった。しばし遅れて、あっ、いま、話を聞きたくなくて止めたみたいになっていなかったか、と焦る。

「あっ、ごめん、悪気ないよ……おいしかったから、食べさせてあげたかっただけで……」

あわてて謝っているあいだに、夫はゆっくりとパンを噛んで、飲み込み、答えた。

「オッケー、愛情だけ受け取るね」

 その言葉の軽さに、虚をつかれたような思いがした。さらっと言っているけれども、いつでもそれができるのなら、どんなにいいことか。そうだな、そうしよう、愛情だけ受け取ってみようか。わたしはそのことでしばらく感心していたのだが、夫にはなんのことだかあまりわかっていないようだった。パンは最後までおいしかった。

 今日も夫が、「マッサージしてあげようか」と声をかけてくれる。一度、うーん、と思う。夫のマッサージは、へただし、痛いし、される前より疲れることもしばしば。けれども、まあ、やってもらおうか。またお互いなんとなく妙な感じで終わるかもしれないけれど、それはそれでいいか。本当に愛情だけを受け取れるものか、ためしてみよう。そんなふうなくりかえしで暮らしていってみようか。

 そう思って、めずらしくマッサージの強さに口を出さずにいてみたら、くっきり指の痕が残ってびっくりした。夫もちょっと引いていた。本当の本当でいえば、やっぱり、ちゃんと気持ちよくなりたいのだった。自然に肩を揉まれて、自然に快復したい。心配されてしみじみとあたたかく思いたい。勝手に走り出す自分の愛情も疎ましければ、だれかの愛情を受け止めきれず、すぐ真っ赤な痕になる自分の脆さも疎ましい。だれかに愛によって行われたことが、自分にとっても本当にいいことである、そんな奇跡のようなことが、どこかで起きてくれないかなあと思うのだ。

(撮影:クマガイユウヤ)