笑う姿を見てて、うれしい | ことぱ舎
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詩と読みものReadings

笑う姿を見てて、うれしい

 わたしがショッピングモールを泣きながら歩くとき。それは、プレゼントを探しているときだ。プレゼントをあげることだけが決まっていて、なにをあげるかがどうにも決まらない。そういうときに、いろんなお店をウロウロと歩き回ればアイデアが降ってくるだろうと期待して行く。その点ショッピングモールはちょうどいい。ショップが密集しているから、あげるもののジャンルすら決まっていなくても、手広くあれこれ見て回れる。

 それで父の誕生日プレゼントを買いに行ったのだったが、最近のショッピングモールはやたらに広い。むちゃくちゃ広い。ああ、にっくき越谷レイクタウン。まず、「kaze」、「mori」、「アウトレット」の三つのエリアに分かれていて、それぞれが一つのショッピングモールぐらいある。かつ、歩道橋で、ときにシャトルバスで移動しなければいけないくらい離れている。全体をゆるっと見ながら決めようかな、くらいに思っていた甘い考えはあっけなく崩れ、持ち前の方向音痴も災いして、朝に到着したはずなのに、「アウトレット」をうろちょろしているだけで午前中が終わった。しかもこれといって有力なプレゼントは見つかっていない。どれを見てもぜんぜん違う、父にあげたいものはひとつもない。しかしわたしもばかではない。自分に休みを与えるタイミングがわからない人生をやってきて二十八年、いいかげんどんな作業の途中であってもお昼になればお昼休みをとる知恵が身についてきた。これはすばらしい。すばらしいすばらしい、と飲食店がある「mori」まで歩いたら徒歩十分かかった。ほうほうの体でバクテーを食べ、「kaze」に行く(徒歩十五分)。「mori」にはプレゼント候補になりそうな店がなく、ご飯を食べればもう用はないのだ。そこでついつい自分の服やなんかも見たりして、店を出たところで、帽子がないことに気がつく。

「すみません、先ほど試着した者なんですけれども、黒いキャップが試着室に落ちていなかったですか……」
「あっ、いま他のお客様が入られていますので、少々お待ちいただけますか?」
「あっ、はい、大丈夫です……」

 待っている間、店員さん同士が小声で(でも、さっき見たよねえ?)(なかったですよねえ?)と確認しあっているのが気まずい。それでうすうす分かっていたが、試着室が空いても帽子はなかった。謝りながら店を出て、さっきバクテーを食べたエスニック・レストランに電話をかける。

「あっ、黒いお帽子ですね、ありました! 『mori』二階のインフォメーションセンターに届けましたので、そちらにございます!」

 ワーン!
 以上が、成人女性がショッピングモールでひとりメソメソ泣くまでの顛末である。こうなるともうぜんぶがイヤになってくる。いや、そもそも、ここに至るまでに積み重なったものがあった———家族連れとカップルに横目で見られながら、わたしはこのあいだの授業のことを思い出していた。

 

 わたしが今年開室した国語教室『ことぱ舎』の木曜夕方のコマには、現状生徒がひとりしかいない。それでわりとのんびり授業をしている。そのぶん、ある問題についてずっと話したり、そこからもさらに脱線したりできるのは、わたしにとっても贅沢なことだと思っている。
 そのときも、ひとつの誤答の前で、ふたり首を傾げていた。先生という立場で一緒に首を傾げているのもどうかと思うけれど、本当にむずかしい誤答だった。

「Q. ———③とありますが、その理由を考えて書きなさい。」
「A.母親のうれしそうに笑う姿を息子は見てて、うれしいから」

 エッセイの読解で、この設問で考えなければいけないのは筆者・重松清さんの行動の理由だった。重松さんは、子どものころお母さんと一緒に作ったロールキャベツのことを印象深く思い返す。そればかりではなく、お母さんは重松さんが四十代半ばを過ぎたいまでも、帰省すると必ずロールキャベツを作るという。そのときに、重松さんはわざとお母さんに子どもっぽい態度をとり、つまようじが入っていたことに口をとがらせて文句をいう。それはなぜか、という問題だ。

 これ自体、むずかしい問題だなあと思う。小学校六年生に解かせるにしては、核となる書き手の感情に渋みがある。「この気持ち、なんとなくわかる? 似た気持ちになったことある?」と聞いてみたら、意外にも「わかる、わかる」という。

「わかるよー。下だと思ってた子がいつの間にか成長しちゃっててさびしい、みたいな」
「あっ、えっ、そっち? じゃあさ、成長する、息子のほうの気持ちは? 自分のお母さんを見て、年取っちゃってさびしいなあ、とか、自分の方が成長しちゃってお母さんさびしいだろうなあとか、なんかそんなことある?」
「それはない」

 即答。
 一応、模範解答としては「いつまでも息子の自分が手のかかる子どもでいたほうが、母親が喜ぶことを知っているから。」となっている。解説にはこのように書かれている。

「母親はいい大人になった息子のことを『くどくどと』しつこく心配し、『おかわりをすると、心底うれしそうな顔』になります。母親にとって息子はいつまでも小さな子どもなのです。筆者はこの思いに気づいていて、その気持ちによりそうようにふるまうのです。わざと『ワガママな子どものよう』にふるまう理由を答えるので、そのようにふるまうことで母親が喜ぶとわかっているから、という方向で解答をまとめます。」

 つまりは、機微があってむずかしいとはいえ、前段ではっきりとヒントが出ているのでそこから読み解けばよい、という解説になっている。しかし、だ。この解説だけでは、「母親のうれしそうに笑う姿を息子は見てて、うれしいから」という回答が誤答である理由をうまく説明しきれない。一応、模範解答を紹介しつつ、わたしたちは首を傾げる。

「なんかね、あんまり間違ってはない感じもするよね」
「うん、わたしもそう思う……」
「君の場合は、どんなふうに考えてこの答えになったの?」
「……? だって、つまようじが入ってたよって注意する理由でしょ? お母さんがうれしいと、自分もうれしいからかなあと思って……」

 うーん。たしかに、である。なんなら、誤答の方が一歩先へ行ってしまっているように思える。母親が喜んでいることは(理由はともあれ)当然のこととした上で、では、なぜ息子は母親が喜ぶことをしようとするのか、という、さらに向こうにある問いに答えようとしないと、この答えは出てこない。いやいや、その(理由はともあれ)というところを飛ばさずに考えておくれよ、というので一応バツをつけたけれども、その飛躍がおもしろい。

「ここまで書いちゃうと、『そもそも、なぜ人は他人が喜ぶことをしたいと思うのか』というところに答えないといけなくなっちゃうと思うんだよね。それはわたしでもちょっとわかんないよ」
「そっかあ」
「でも、そんな難しい問題に急にチャレンジしたにしては、ちゃんと考えて答えたんだなあ、ってわかるよ」
「そお?」
「うん」
「そっかあ」

 そんなふうに話しながらも、わたしの方がまだどこかで引っかかっている。彼女がまず疑問に思ったであろう、「お母さんが喜ぶことを、なぜ息子がしたいと思うのか」ということについて。先には、彼女の誤答の方が一歩先に行ってしまったと書いたけれども、あるいは逆であるかもしれない。誰もが誰かを喜ばせることをしたいはずである、それは当然であるとし、そこに疑問を持つまなざしを置き去りにしてはじめて、この解答が成り立つような気がしてくる。

 

 「kaze」の通路を肩をいからせて歩いていきながら、わたしは泣いている。帽子をなくして無駄足になったのも悲しい、気づいたらもう午後二時半なのも悲しい、そしてなによりも、父にあげたいプレゼントがひとつも見つからないのが悲しい。
 プレゼントをあげたいと思って買いものにやってきたのにそれが見つからないとき、あんなに悲しいのはどうしてなのだろう。自分は大切な父のことをなんにもわかっていなかったんじゃないか、とうじうじしはじめ、そうなると今度は「いや、そもそも、あげたいものもないくせに誕生日だからって反射でプレゼントをあげるというのはどうなんだ」と自分を責めたくなってくる。

 誕生日だからすなわちプレゼントをあげるなんて、形骸的なコミュニケーションであって、相手を大切に思う気持ちとは反対じゃないか。
 いやいや、実のない形骸的なコミュニケーションこそ、どんな無意味なことであってもあなたと関わりを持ちたいという意思表示であって、親密さのあらわれなのだよ。
 じゃあなにをあげてもいいのか? わたしがプレゼントをあげたいのは「父」という記号ではなく、「わたしの父」という生きた個人であるのに、お店で父へのプレゼントというとだいたいどんなおじさんにもあげられる、マフラー、ネクタイ、名前入りのボールペンあたりに収斂してしまうのはどうして?
 それこそが中身なんて問題じゃない証明じゃないか。「あげたいものがあるからプレゼントをあげる」なんていうのはいかにもおまえらしい本題の取り違えだね。プレゼントをあげたいから、あげたいものができるんだよ。
 じゃあなにをあげたらいいの?
 そこの「お父さんありがとう」って書いてあるビールジョッキでもあげてさみしがらせてやればいい。
 あっ、やっぱりさみしがるとわかっているんじゃないか!!
 さみしがらせてやればいい。自分が歳をとったと分からせて、同時に娘が成長したと分からせて、年月を経た父娘のだいたいの距離感というものを見せてやればいい。
 ……うるさいな……

 

 父は八月で五十八歳になった。重松さんがエッセイの中でお母さんの作るロールキャベツをたくさん食べる理由は、子どものようにおかわりをしてお母さんを喜ばせたいばかりではない。

いい歳して、四つも五つも食べる。食欲が増したわけではない。おふくろが一人でつくるひき肉のダンゴが、昔より一回りも二回りも小さくなったせいだ。

 わたしは父が歳をとるのが怖い。父の身体が小さくなり、動きが遅くなって、死のほうへ近づいていくのが怖い。結婚して家を出てから、心なしかその経過が早まっているように思えることも、見ないふりをしている。それなのに、誕生日を祝おうとしている。泣きながら越谷レイクタウンを歩く。もうほとんど走っている。ビールジョッキを無視し、名前入りのボールペンを通り過ぎて、頭のなかにはついにひとつの問いだけが残る。

Q.父が喜ぶことを、わたしはなぜしたいと思うのか?

 結局、わたしは越谷レイクタウンでプレゼントを買うのをあきらめた。家に帰って、ネット通販で父の好きな車種のラジコンを買った。父が喜ぶと分かっているから、というのでは、やはり足りない。「父が喜ぶとわたしもうれしいから」というのは、生徒の答えであって、わたしの答えではない。

 ラッピングをやぶいて出てきたラジコンに父は爆笑して、すぐに家中の単三電池をかき集め、リビングをかっ飛ばした。ときどきバンパーで壁紙をえぐって母の反感を買った。父が小さなガルウイングを開閉させるたび、その間抜けなカッコよさがおかしくて、わたしと弟と夫も爆笑した。運転好きな父だから、三十分も走らせたらドリフトまでマスターした。わたしは子どものように、「ねえ、それどうやんの? もっかいやってよ」とねだったのだ。

 

引用:
Z会編集部 編(2017)『Z会グレードアップ問題集 小学六年 国語』Z会
重松清「ロールキャベツ」(飯島奈美(2009)『LIFE なんでもない日、おめでとう! のごはん』東京糸井重里事務所)