国語教室を開く前は個人で家庭教師をしていた。家庭教師は家庭教師ですてきな仕事で、好きだった。指導自体はもちろんとしても、よその家に入っていって、外国のお茶を出していただいたり、小型犬にメンチをきられたり、エレベーターがあって仰天したり、そんなこともおもしろかった。
六年生の女の子、みくさんも生徒のひとりだった。どんどん増えるハムスターと、メンチはきらないがちょっとでも撫でるとうれしすぎておしっこをもらすダックスフンドを飼っている。おしゃべりで、一週間に一度わたしが行くと、その週にあったことをなにからなにまでしゃべってくれる。
それはありがたいのだが、問題を解いている最中にもぽつぽつなにかしゃべるのが、ちょっと心配だった。とくに、毎回授業の最初にやる漢字テストがひどかった。考えている最中のひとりごとという感じならまだわかる。そうではなくて、「あっ、あのね、『修める』はこないだ書けるようになったからね!」「今日はさ〜新しいシャーペンにしたから書きやすいわ♡」「ぎゃーっ! 先週覚えたのにまた忘れてる! みくのばかばか!」という調子で、つねにそのとき浮かんだことをフルパワーでしゃべってしまう。はじめ、わたしに話しかけているのかと思ってついつい答えてしまっていたけれど、そうするとどんどん意識が問題から離れてしまってキリがない。本人も、どちらかというと自分のおしゃべりに困っているらしい。
そのうちわれわれの間で、対策として「どうしてもしゃべってしまうときにはしゃべってもいいが、先生は問題を解いている最中は基本無視をします」という取り決めがなされた。すると彼女なりにどうにかおしゃべりをおさえようとしているらしく、「あっ、そういえば…………………」「あのね〜、あっ……………………」と、こちらをもやっとさせながら急ブレーキがかかるようになった。うーん。
わたしが多少もやっとしたところで誰に迷惑がかかるわけでもなし、おちゃめでいいといえばいいのだが、問題は彼女が中学受験を控えていることだった。口を開きっぱなしで問題を解くことに慣れてしまうと、しゃべることと考えることとが紐づきすぎて、いざ本番の一切しゃべれない環境に置かれても「しゃべっていないと、考えられない」という状況になってしまったり、そうでなくても過分に緊張してしまったりしてもおかしくない。
それで、一度、腰を据えて相談することにした。彼女のことは三年生くらいから指導していて、はじめのころ黙読よりも音読のほうが意味をとりやすい時期があったのを知っている。それで、「この人は、なにか口に出しているほうが考えたり、思い出したりしやすいのかも」という仮説を立てていた。自分が逆に音声情報に弱く文字情報に強いこともあって、人によってやりやすい学習手段があるのだろう、と思ってもいた。
「みくさん、今日も問題解いてるとき、めっちゃ、しゃべってしまってましたよね……」
「そうなのよ〜! 毎回、今週はしゃべらないぞ! って思ってるのに、ついしゃべっちゃうの!」
「なんでだろうね……。学校の授業中はしゃべらないでいられるの?」
「うーん? しゃべっちゃうときもある!」
聞けば、学校の授業中はみんながしゃべりはじめると自分もしゃべってしまう、算数を習っている集団指導の塾ではしゃべると怒られるからそもそもしゃべりたいと思わない、という。うーん。わたしの厳しさの問題なのか? 仮にそうであったとして、彼女がしゃべらずに問題を解けるように”教育”することが、わたしのするべきことなのか?
事情聴取はつづく。
「たとえば、算数の塾で黙っているときを思い出してほしいんだけど、しゃべってる方が、漢字思い出しやすいとか、考えやすいとかっていう感じがあるの?」
「うん、それはそうかも……しゃべらないとさ〜思ったことすぐ忘れちゃうし……」
「いや、わからないでもないけど、問題解いてるときは、たとえばシャーペンのこととかだったら忘れてもよくない……?」
すると、彼女がいうのだ。
「うーん、でも、漢字テストは特に、授業の最初だし……」
「?」
「しゃべりたいことがたくさんあるのよお」
「……? わたしに??」
「うん! そう!」
あれ!? そんなこと!?
これはびっくりだった。彼女の口からいろんなことがぼろぼろノーブレーキで出てきてしまうのは、考えているからではなく、わたしがいるためだったのだ! 漢字テストを解いてはいるものの、そして「先週覚えたのにまた忘れてる!」というようなおしゃべりのせいもあって一見目の前の問題に熱心に取り組んでいるように見えるものの、わたしが来てからのしばらく、彼女はつねに心ここにあらずで、わたしに話しかけたいことでいっぱいになっていたのだった。
「えっ、でも、毎回漢字テストする前にもけっこうしゃべっていますよね……?」
「うーん、でもさ、一週間ってけっこう長いじゃない?」
まあ、ねえ。
このことは、わたしにとって大きな反省になった。
「漢字テストを解きながらしゃべってしまうということは、一生懸命考えているとついつい口から出てきてしまうのだろう!」というわたしの仮説は、「この人は漢字テストに集中して一生懸命考えてくれている」ということが前提になっている。けれども、彼女がかなり勉強に前向きであったとはいえ、いつでもコンスタントに一生懸命でいられるわけではない。単にこのとき、彼女にとっては漢字テストよりおしゃべりのほうが大切だったのだ。わたしは彼女の基本的な前向きさに甘えて、彼女の微細な揺れを見過ごしてしまっていたのだった。
そして、彼女から出てくるさまざまなリアクションを、わたしはすべて彼女の特性によるものだと解釈しようとしていたけれど、それも違った。わたしがその場所にいる以上、彼女から出てくるものはすべて、わたしと、彼女との二者の間で起こったことだった。他人の行動や感情について考えるとき、ともすると観察者の目線になって、自分がいることが与える影響を度外視しそうになってしまう。けれども自分はどうしようもなくそこにいて、相手とがっぷり関係しながら、できごとの内側でどうにか相手を見ようとしていくしかない。
その後、われわれの間では、「最悪しゃべってもいいが、無視する」に替わる新しい取り決めがなされた。すなわち、「最初に、この一週間にあったしゃべりたいことを、できるだけ全部話し切る。もしどうしても新しく思い出したときには、メモをして一回忘れる」。これによって、彼女のおしゃべりはどうにか「メモメモ」だけにおさえられ、そのおかげというわけでもないが、中学受験は無事に終わった。音声情報と文字情報の得手不得手なんてややこしいことを考えるまでもない、ちょっと拍子抜けする解決だった。
しかしよく考えてみれば、浮かんでくる雑念をどうにか払い去って目の前のことに集中しつづけるなんて、わたしでもむずかしい。したくなったことをメモして一旦速やかに忘れるというハックをわたしが身につけたのは二十歳を越えてからだ。勉強を教えながら、そういう、生き方というほどではない、こなし方、みたいなものを、ちょっとずつ伝授している気分になることが、ときどきある。そして、そういうものについて話しあうために、見かけ上勉強を教えているふりをしているのだ、とさえ思うことがある。
(※エッセイに出てくる人物名は仮名です)