どうすれば自分もそのように誤ることができるか(谷口隆『子どもの算数、なんでそうなる?』) | ことぱ舎
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どうすれば自分もそのように誤ることができるか(谷口隆『子どもの算数、なんでそうなる?』)

谷口隆『子どもの算数、なんでそうなる?(岩波科学ライブラリー302)』岩波書店を読みました。

 数学者の谷口隆さんが、自身のお子さんが算数にふれ、さまざまに理解していくようす、そしてその過程でさまざまに間違えるようすを観察するエッセイ。「教える」というのではなく「観察する」というのがこのエッセイにはふさわしい。それでいて、まさにその「観察」こそが「教える」ために不可欠なことであると思わされる。

 子どもは間違える。二枚の百円玉を指して「ヒャクニエン」といったり、「11時の1分前」をたずねられて「10時69分」と答えたりする。わたしは子どものときから今に至るまで算数が苦手だけれども、さすがに大人、上記の二問はわかる。とてもかんたんであると思う。しかし、わかるゆえに、こんなにかんたんな問題をどうして間違えるのかはわからない。そこを谷口さんはつぶさに観察し、その答えが導きだされた道筋を考える。考えるばかりではなく、深く納得しようとする。「ヒャクニエン」の問題に関してはこうだ。

もともと日本語の自然な語順は「100が2つ」であり,「2つの100」と表現することはあまりない。たとえば入場料を払うときに人数を伝えるには「大人4,子ども3」のように言うのであって,「4大人,3子ども」とは言わない。そのように,幅広く一般的に用いられている統語の規則である。であれば、100が2つある状況が,二百ではなく百二となるのは,子どもにとっては当然のことではないだろうか?

 このように推測されて、読んでいるわたしもはじめて谷口さんとともに「ヒャクニエン」に納得をすることになる。そして、さっき「考えなくてもわかる、当然ニヒャクエンである」と思った自分の足場のほうがあやしくなってくる。あれっ? じゃあニヒャクエンの方にはどのような正当性があるのだっけ……? 「11時の1分前」問題の説明はこれよりさらに複雑でおもしろいのでぜひ読んでもらいたい。

 この納得がいい。誤りに対して反射的に「どうすれば誤りを正せるか」と考えてしまいそうになるところを、このエッセイは「どうすれば自分もそのように誤ることができるか」と考える。単に正答を教えることはほとんどしない。誤りを訂正しないままさらっと三ヶ月経ち、数年経ってしまう。その定点観測の遅さもまたおもしろい。どうすれば正しさのほうへ急いでしまわず、そのようにゆるやかに構えていられるのだろう。

 特筆すべきなのは、この本が一貫して誤りをおもしろがっているところだ。誤りをおもしろがるというと、「珍回答」的なある種の侮りを連想するけれども、そうではない。誤りそのものを、子どもの学びにとって、また観察している大人の方の学びにとっても、本当に重要なものとして扱っている。

 誤りの観察を通してこのエッセイに書かれているのは、「他者の理解を理解する」試みではないか。一度わかってしまうと、わからない状態に戻るのはむずかしい。そこにはほとんど断絶がある。さらに、仮に自分がどのようにわかったかを思い出すことができたとしても、それがすなわち他人がどうすればわかるかを理解することにはならない。教育の場面にありふれたその断絶を打開するためにはどうすればいいのか。

 正答を教えることをしない代わりに、谷口さんは新たな問いを子どもに投げかける。その応答を通じて、子どもの中でどのような理解がなされているかをさらに解明しようとする。その地道さ、遅さ、そして自分の理解を絶対のものとしない態度が、すでにわかってしまったあとに教えるということを考えるための重要なヒントになる。自分の理解と他人の理解とが異なることを踏まえながら、しかし単に異なるということに終始せず、あくまで両者の接地する点を探る。自分の理解からしかはじめられないとしても、他者の理解がどのようであるかを推測し、納得することはできる。そのすぐれた知性のありように励まされる。

 また、その知性のはたらきを通じて、「なぜ間違えたのか」という問いがつねに水面下に生きているのがすばらしい。これはどうにも扱いづらい問いかけで、日常生活の中では、そうたずねたら相手を萎縮させてしまい、逆に自分から話すと今度は言い訳のように響いてしまう(先日聴きに伺った谷口さんの講演会でも同様のことが話されていて、実際に子どもにたずねるときには「なぜ間違えたのか」という問いかけは避け「どうやって考えたのか」を聞くらしかった)。けれども、「なぜ間違えたのか」をただ考えるほど重要なことはないように思えてくる。そもそも他人の理解を云々する以前に、自分がどのようにわかったかさえ、ほとんどわからずに暮らしているのではないか。静かに、急がずに、「なぜ間違えたのか」とくりかえし考えたい。